中国・清の武将、政治家。字は亮工、号は雙峯。明の時代からの名門に生まれ、1700年科挙に合格して官職に就く。1709年、康熙帝の第4皇子胤禛(いんしん)(=のちの雍正帝)が和碩雍親王になり、その配下となった。
1718年、チベットに侵攻してきたジュンガル軍討伐のため、四川総督に任ぜられる。康熙帝の第14皇子胤禵(いんだい)の下で戦い、凱旋後は陝西・四川の総督となった。
雍正帝が立つと、青海での反乱を鎮圧、帝より一等公を授けられた。しかしその急激な出世は人々の反感を買い、1725年には帝から奏文が不敬であると咎められ、杭州将軍に左遷。同年、92の罪を問われて弾劾される。翌年、帝より死を賜り、15歳以上の一族は流刑となった。
清史稿/卷295