サヨン・ハヨン
さよん はよん
1920 - 1938
「サヨンの鐘」のモデルとなった日本統治時代の台湾の少女
- 亡くなってから86年87日過ぎました。
- 18歳で亡くなりました。
- 1920年に誕生、1938年09月27日に亡くなりました。
- 生誕100年が経過しました。没後82年が経過しました。
- 暮らした時代は、大正(7年360日)、昭和(12年280日) です。
- 次の法要は13年282日後、2037年09月27日の百回忌です 一覧
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サヨン・ハヨンさんの主な法要の日を表示しています。
命日は09月27日です。
仏式の場合
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初七日 - 1938年10月03日
四十九日 - 1938年11月14日
百か日 - 1939年01月04日
一周忌 - 1939年09月27日
三回忌 - 1940年09月27日
七回忌 - 1944年09月27日
十三回忌 - 1950年09月27日
十七回忌 - 1954年09月27日
二十三回忌 - 1960年09月27日
二十五回忌 - 1962年09月27日
二十七回忌 - 1964年09月27日
三十三回忌 - 1970年09月27日
五十回忌 - 1987年09月27日
百回忌 - 2037年09月27日
百五十回忌 - 2087年09月27日
二百回忌 - 2137年09月27日
三百回忌 - 2237年09月27日
神式の場合
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十日祭 - 1938年10月06日
二十日祭 - 1938年10月16日
三十日祭 - 1938年10月26日
四十日祭 - 1938年11月05日
五十日祭 - 1938年11月15日
一年祭 - 1939年09月27日
三年祭 - 1941年09月27日
五年祭 - 1943年09月27日
十年祭 - 1948年09月27日
二十年祭 - 1958年09月27日
三十年祭 - 1968年09月27日
四十年祭 - 1978年09月27日
五十年祭 - 1988年09月27日
百年祭 - 2038年09月27日
百五十年祭 - 2088年09月27日
二百年祭 - 2138年09月27日
三百年祭 - 2238年09月27日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1938年09月29日
追悼ミサ(七日目) - 1938年10月03日
追悼ミサ(三十日目) - 1938年10月26日
死者記念のミサ(一年目) - 1939年09月27日
死者記念のミサ(十年目) - 1948年09月27日
死者記念のミサ(二十年目) - 1958年09月27日
死者記念のミサ(五十年目) - 1988年09月27日
死者記念のミサ(百年目) - 2038年09月27日
死者記念のミサ(二百年目) - 2138年09月27日
死者記念のミサ(三百年目) - 2238年09月27日
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1時間:0人 1日:1人 1週:1人 1カ月:3人 1年:110人
詳細
サヨン・ハヨンさんについて
1938年(昭和13年)、日本統治下の台湾・台北州蘇澳郡蕃地大字リヨヘン社に駐在していた日本人の巡査田北正記に召集令状が届き、出征することとなった。その巡査は村の学校の教師も務めるなど面倒見がよく、村人から慕われていたため、下山する際の荷物運びを村の青年たちが申し出た。17歳の少女サヨン・ハヨン(漢字名:沙韻 哈勇)もその一人だった。一行は悪天候の中出発したが、途中の川に掛かった丸木橋を渡る際、荷物を背負っていたサヨンは足を滑らせて増水した川に落ち、命を落とした。
この話は、出征する恩師を見送るために少女が命を犠牲にした、ということから、台湾先住民宣撫のための格好の愛国美談となって広まり、台湾総督によってサヨンを顕彰する鐘と碑が遭難現場付近に建てられた。これが「サヨンの鐘」と「愛國乙女サヨン遭難の碑」である。
「大東亜戦争」勃発後の1943年、山地名の日本色強化政策により、サヨンの故郷・リヨヘンもこの物語により鐘ヶ丘(かねがおか)に改称された。
第二次世界大戦後、台湾に移ってきた国民党政権によって、日本の台湾統治の象徴のひとつであるこの鐘は撤去され、碑も碑銘を削った上で廃棄された。その後、台湾の民主化とともに鐘は復元され、碑も、新しい碑と並んで再び建てられている。また、サヨンの住んだ村の付近に架けられた橋には「サヨン橋」という名もつけられている。
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