水野元宣
水野忠元の弟水野守信の子孫。遠江国浜松に生まれる。弘化3年に水野家が移封となり山形に移住した。慶応元年(1861年)に筆頭家老に就任。幕末の難局に勤王を誓約させられ、京都で軟禁状態にとして留めおかれた藩主水野忠弘に代わり重臣らとともに国許を取り仕切った。奥羽鎮撫総督の命に従い庄内藩攻略(庄内戊辰戦争春の陣)に加わったが、新政府軍参謀世良修蔵の横暴に怒った仙台、米沢両藩に呼応し、元宣自ら奥羽越列藩同盟に署名、新政府軍と戦った。のちに謝罪降服の為に奔走し、自ら首謀者として名乗り出て、責を一身に負って山形藩地の長源寺で処刑された。家名断絶、父の元永に対しては家禄没収の上謹慎、家人は他家預かりとなった。
山形藩は戦火を免れたのは元宣の功績とされ、豊烈神社に合祀されたほか、明治34年には境内に銅像が建立された。