巖谷龍一
いわや りゅういち
1830 - 1900
大審院評定官
- 亡くなってから124年211日過ぎました。
- 71歳で亡くなりました。
- 1830年12月に誕生、1900年05月23日に亡くなりました。
- 生誕190年が経過しました。没後120年が経過しました。
- 次の法要は24年161日後、2049年05月23日の百五十回忌です 一覧
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巖谷龍一さんの主な法要の日を表示しています。
命日は05月23日です。
仏式の場合
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初七日 - 1900年05月29日
四十九日 - 1900年07月10日
百か日 - 1900年08月30日
一周忌 - 1901年05月23日
三回忌 - 1902年05月23日
七回忌 - 1906年05月23日
十三回忌 - 1912年05月23日
十七回忌 - 1916年05月23日
二十三回忌 - 1922年05月23日
二十五回忌 - 1924年05月23日
二十七回忌 - 1926年05月23日
三十三回忌 - 1932年05月23日
五十回忌 - 1949年05月23日
百回忌 - 1999年05月23日
百五十回忌 - 2049年05月23日
二百回忌 - 2099年05月23日
三百回忌 - 2199年05月23日
神式の場合
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十日祭 - 1900年06月01日
二十日祭 - 1900年06月11日
三十日祭 - 1900年06月21日
四十日祭 - 1900年07月01日
五十日祭 - 1900年07月11日
一年祭 - 1901年05月23日
三年祭 - 1903年05月23日
五年祭 - 1905年05月23日
十年祭 - 1910年05月23日
二十年祭 - 1920年05月23日
三十年祭 - 1930年05月23日
四十年祭 - 1940年05月23日
五十年祭 - 1950年05月23日
百年祭 - 2000年05月23日
百五十年祭 - 2050年05月23日
二百年祭 - 2100年05月23日
三百年祭 - 2200年05月23日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1900年05月25日
追悼ミサ(七日目) - 1900年05月29日
追悼ミサ(三十日目) - 1900年06月21日
死者記念のミサ(一年目) - 1901年05月23日
死者記念のミサ(十年目) - 1910年05月23日
死者記念のミサ(二十年目) - 1920年05月23日
死者記念のミサ(五十年目) - 1950年05月23日
死者記念のミサ(百年目) - 2000年05月23日
死者記念のミサ(二百年目) - 2100年05月23日
死者記念のミサ(三百年目) - 2200年05月23日
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詳細
巖谷龍一さんについて
巌谷龍一(岩谷龍一 武雄の士籍・御用絵師 子孫)妻 わか
岩谷家は、武雄の御用絵師白如斎・温古斎の系譜を引く。龍一の祖父の代、1802(享和2)年より武雄の士籍に列した。藩し京都に出た。
龍一は、1830(天保元)年12月武雄に生まれた。幼い頃から武雄の医師清水宗庵の門下となり医学を志したが、後に脱藩し京都に出た。
生来、多芸多能で(書にも巧みで)あったが、
京都での苦学中は学資に窮すと夜陰に乗じ按摩となったり阿呆陀羅経を語ったという。
また、ある日、京都の町で高杉晋作とすれちがい、その姿の異風さに振り向くと、
高杉も同様に振り返り笑い掛けたため、意気投合。以後、互いに交際し、遂にともに長州へ至り井上馨らと交わり、
大村益次郎から蘭語を学び洋式の兵学を研鑽したと『武雄史』に伝える。
幕末、武雄に帰り、領主鍋島茂昌から武雄の武士の子弟の学校身教館の監督、
および洋式兵術の指南を命じられ、明治維新期の戊辰戦争では茂昌に従って武雄軍団の参謀として秋田方面での戦闘に出征、
武雄の勇名を轟かすことに貢献した。
1871(明治4)年の廃藩置県で佐賀県少属となったが、翌年、官を辞して東京に出、
井上馨の推挙を得て大蔵省四等出仕の内命を受けた。しかし、佐賀から分に過ぎた厚遇であるとして制止に会い任官できず、
陸軍中佐を命じられた。このことは彼にとって生涯の遺恨となり、
一度だけ墓参のため帰省した外は、終生、佐賀の地を踏まなかったという。
1876年、司法省に転じ、9月には大審院判事となって、
福岡県の秋月の乱の取り調べを担当、裁判長として処断をおこなった。また1878年には、西南戦争に際し西郷隆盛と連携した嫌疑で
元老院幹事陸奥宗光を取り調べ、審問すること2時間、遂に急所を衝き、禁固5年の服罪を決定づけた。この時、陸奥は龍一に向かい
「鳴呼、岩谷、遂に余を死せしむ」と嘆いたという。「名判事岩谷龍一」の名声を確立する出来事であった。
岩谷はその後、1884年、名古屋始審裁判所長、1887年、大審院評定官となり、1900(明治33)年、71歳の生涯を終えた。
url=https://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/jinbutu/text/ryuuiti.html
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