【前259年~前210年】
中国・秦の第31代君主、初代皇帝(在位:前247年~前210年)。中国での呼称は秦始皇(しんしこう)。姓は嬴(えい)、氏が趙(ちょう)、諱は政(せい)。それぞれ諱と合わせて嬴政また趙政とも言う。父は第30代君主の荘襄王(そうじょうおう)、母は趙姫(ちょうき)。一説に実父は呂不韋(りょふい)ともいう(趙姫はもと呂不韋の愛人であったため)。
父が趙(戦国時代の国の一つ)に人質となっていたため、その都邯鄲(かんたん)で出生。前257年、曽祖父の昭襄王(しょうじょうおう)が邯鄲を包囲、父は秦へ逃亡するが政は母と置き去りにされ、一時は命を狙われる事態に陥った。前250年、祖父の安国君が孝文王として即位し、父が太子になると、趙によって母子共に秦の咸陽(かんよう)に送り返される。しかし孝文王は在位3日にして亡くなり、父の子楚が荘襄王として即位した。ところが前247年、荘襄王は在位3年という短い期間で死去したため、政は13歳で秦王となる。
即位後、しばらくは前代から仕えていた呂不韋が政治を行っていた。しかし、密かに趙姫と関係していた呂不韋が関係清算のために嫪毐(ろうあい)という男を送ったことが始まりとなり、嫪毐の乱が勃発。呂不韋は失脚して前235年に自殺し、政王の独裁が開始された。
独裁を始めた政王は強大な軍事力を握り、他国の人間を買収して工作に努める。王翦(おうせん)、蒙武(もうぶ)、蒙恬(もうてん)らの将軍を用いて韓・趙・燕・魏・楚・斉の六国を次々と滅ぼし、前221年遂に中国を統一、自ら『皇帝』と称した。
統一後、中央集権政策を推進し、郡県制を採用。それまで各国で違っていた文字及び度量衡を統一し、また万里の長城や阿房宮などの大土木工事を起こした。さらに法家の李斯(りし)の言を容れていわゆる『焚書坑儒』(書物を焼き、儒者を生き埋めにした思想弾圧)を行い、思想統一を図った。加えて神仙思想に関心を示したり、各地を巡幸して自らの政治を誇った石刻を建てたが、その巡幸の最中に病死した。
始皇帝 - Wikipedia