まいり
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亀尾利夫

かめおとしお
1926 - 2010
弘前大学人文学部長、東京家政学院教授・図書館館長
亀尾利夫さんについて
東京生まれ。東京大学文学部哲学科卒業。父は独文学者の亀尾英四郎。
著書:デューイの哲学 知識と行為(勁草書房)
主論文:ロックの自由について(日本哲学会「哲学」第6号)、デューイとヘーゲル(「日本デューイ学会紀要」第11号)、プラグマティズムの思想的源泉ージョン・デユーイの場合(中村雄二郎編『思想史の方法と課題』東京大学出版会)、カントの「認識批判」序説(むぎ書房刊「教育学」第2号)
2017.12.03 ID:210077
おじいちゃんりなだよ
今ね、おじいちゃんの、おばあちゃんと、ははと、一緒に、暮らしてるよでも、それは、おじいちゃん知ってるもんね‼会いたいよ今ね私哲学の勉強してるよ。後私特別支援学校で⚽やってるよ
2017.03.06 ID:176629
おじいちゃんへ
2016.05.24 ID:158967
死という厳粛な事実を前に私はたじろいだ。氏の「ゲエテ信奉」とそれは関係があるのかないのかーそう問うことさえ、人間の内面に土足で踏み込むような、不躾で軽薄な傲りと感じられた。 資料の一つ、御両親の五十回忌を機に末子の覺(あきら)氏がまとめた『亀尾英四郎・操関連報道・記事集』を操っていた私の目は、そこに収められた一葉の写真に釘付けになる。不幸の翌年に撮られたと思しき写真の中央には、幼い弟妹たちに囲まれて「利夫君」が座っている。慈父のように穏やかな、靭い意志の光をたたえたその眼は、紛れもない先生のそれであった。 (本学附属図書館所蔵の『亀尾英四郎全集』全二巻(私家版、2007年)を編集・寄贈された覺氏は中学卒業までを社会福祉法人・東京育成園で過ごした後、当時教育学部野辺地分校に赴任していた長兄を頼って来県し、県立野辺地高校、さらには本学文理学部理学科を卒業されている。先生御夫妻が文字通り「親代わり」であった。)  完
2016.05.24 ID:158966
は学部長就任の年『デューイの哲学ー知識と行為』を世に問うと、2年後の春東京の大学へと去られた。その先生と、ほぼ20年後、例のエッケルマンを機縁に思いがけぬ「再開」を果たすことになる。 日本における過度に理想主義的なゲーテ受容が気になり探っていた私は、「熱烈なゲエテ信仰者」亀尾の存在とも改めて向きあうことになる。例えば招集された武良茂青年(のちの水木しげる)が心の支えに「暗記する」ほど何度も読み返し、「雑嚢に入れて南方まで持っていった」のが岩波文庫の亀尾訳『ゲエテとの対話』三巻だった。資料を渉猟していた私は、しかし、衝撃の事実の前にたちすくむ。終戦間もない昭和20年10月、東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎は食料統制下、闇を排して配給のみで食いつないでいたが栄養失調で倒れ、不帰の人となっていた。当時の新聞報道によれば、あとには「操夫人との間に東京高校文乙二年の長男利夫君以下六人」の遺児が残された(後を追うように夫人も3か月後「衰弱死」している)。当時「利夫君」18歳、末子は3歳である。
2016.05.24 ID:158958
「亀尾利夫先生のこと」弘前大学人文学部田中岩男教授②(学園だより186号10頁)
東京で二年の修士課程を了えただけで助手として母校に舞い戻った私は、恩師ばかりに囲まれ、いつ無知が暴かれるかと緊張のし通しだったが、この時すっと肩の力が抜けるのを覚えた。真理に対して恥じるべき無知などないー知の先達から受けた洗礼であった。 学部長としての先生の統率ぶりも水際立っていた。教授会ではもっぱら聞き役に徹してほとんど口を開かない。冷静で辛抱づよく、熱したり、まして激することがない。うるさ型の長老たちにも十分に発言させ、結局、議論は先生の一言で落ち着くべきところに落ち着いている。40代の若さで要職に就かれた事実にも人望の厚さはうかがわれたが、その沈着さ、的確な判断力、そして強靭な意志はどこからくるものなのか。 珍しい苗字ゆえ最初から気になっていたが、亀尾英四郎が御父君だと漏れ聞いたのはいつ頃のことだったか。岩波文庫にも納められたエッケルマン『ゲエテとの対話』の訳者で『ゲエテとドイツ精神』の著書もある著名なドイツ文学者である。ゲーテ研究の端くれとして、色々お話を伺いたいと思いながら機会を得ぬまま、先生
2016.05.23 ID:158922
「亀尾利夫先生のこと」弘前大学人文学部田中 岩男教授
(弘前大学「学園だより」第186号10頁 (No.1)
 勤めが長くなると勢いお世話になった人の数も多くなる。数えてみると、学部長だけでも11名に上がっている。人の上に立つだけあり、それぞれ個性的な忘れ難い面々であるが、ここでは最初にお世話になった亀尾利夫先生のことを記しておきたい。
 1975年春のこと。着任の諸手続きで庶務課にいると、夕刻、やはり4月に学部長に就任したばかりの先生が帰りがけに立ち寄られた。愛用の中折れ帽を被り鞄を下げた端正な姿の先生は、私を見つけるとつかつかと歩み寄ってきた。困惑する私をよそに、おもむろに鞄から一冊の洋書を取り出した先生は頁を繰ると「ここのドイツ語がどうもすっきり解らないのですが」と尋ねてきた。直前まで研究室でその箇所と格闘していたらしい。すぐに詳しくコンテクストを説明し始めた。
 その時の質問内容も、それに対しどう答えたのかも、まったく憶えていない。が、学生同然の私にまで謙虚に教えを乞おうとする姿は、真理を追究する学究の姿勢として鮮烈に印象づけられた。
2016.05.16 ID:158628
東京家政学院大学
2016.04.07 ID:157061
亀尾利夫の墓:鎌倉霊園
2016.04.04 ID:156939
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