北海道出身。函館大附属有斗高校のエースとして同校を3度甲子園に導いた実績を評価され、1987年のドラフトで長嶋一茂の抽選を外した大洋ホエールズ(現:横浜DeNAベイスターズ)の1位指名を受け入団。
150km/h以上のストレートと高速シュートを武器に中継ぎとして活躍、1992年には一部先発試合もあったとはいえ中継ぎでは異例の規定投球回達成で最優秀防御率(2.05)に輝く。その後も1995年にリーグ最多登板(52)をマークするなどした。
1997年オフにトレードで近鉄に転ずるが、直後に脳腫瘍への罹患が判明。手術を経て長いリハビリ機関に入るが不撓の精神でそれを克服し1999年の最終戦で1軍に復帰。2001年のカムバック賞受賞(防御率こそ7点台だが34試合登板、なお2021年現在パリーグ最後の同賞受賞者)を置き土産に翌2002年に引退。近鉄時代の闘病・復活は中村ジンによって「復活~The long and winding road~」のタイトルで漫画化された。
引退後は古巣・横浜の職員と解説者の二足の草鞋で活動するが脳腫瘍の再発などにより長い闘病生活に突入し、2015年に他界。没後、ドキュメンタリー番組で夫人の視点から彼の生涯を振り返る番組が企画され話題を呼んだ。
通算成績は345試合に登板し防御率4.05。著書に「彼女がくれたマウンド」がある。