1932年、東京都生まれ。7歳でハンセン病を発症し、東京都東村山市にあった全生病院(現在の国立療養所「多磨全生園」)に入所。51年に栗生楽泉園に移った。入所者の待遇改善を求めた戦後の人権闘争で国会での座り込みにも参加するなど、「闘士」として運動を主導した。
国による患者の隔離政策の違憲性を訴えた国家賠償訴訟では元患者らの先頭に立ち、国の誤りを認めた2001年の熊本地裁判決と政府の控訴断念を勝ち取った。04年に全国原告団協議会の会長に就任した。
その後も栗生楽泉園の入所者自治会副会長として、元患者の名誉回復や療養所の職員削減による窮状などを社会に訴え続けた。楽泉園にあった患者の監禁施設「重監房」の復元を国に求める運動にも取り組み、4月30日に重監房資料館開館を実現したばかりだった。
詩人でもあり、患者らの思いを詩を通じて代弁し、「ライは長い旅だから」などの詩集を残した。
肺がんを患い、闘病しながら活動を続けていた。
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