有川矢九郎
ありかわ やくろう
1829 - 1908
薩摩藩士 鹿児島の海運業実業家
- 亡くなってから116年77日過ぎました。
- 78歳で亡くなりました。
- 1829年10月11日に誕生、1908年10月03日に亡くなりました。
- 生誕191年が経過しました。没後112年が経過しました。
暮らした時代は、文政 から 明治 です。一覧
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有川矢九郎さんの暮らした時代を表示しています。
文政(2年105日)
天保(14年356日)
弘化(4年84日)
嘉永(7年291日)
安政(6年86日)
万延(356日)
文久(3年0日)
元治(2年36日)
慶応(4年177日)
明治(41年262日)
- 次の法要は33年296日後、2057年10月03日の百五十回忌です 一覧
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有川矢九郎さんの主な法要の日を表示しています。
命日は10月03日です。
仏式の場合
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初七日 - 1908年10月09日
四十九日 - 1908年11月20日
百か日 - 1909年01月10日
一周忌 - 1909年10月03日
三回忌 - 1910年10月03日
七回忌 - 1914年10月03日
十三回忌 - 1920年10月03日
十七回忌 - 1924年10月03日
二十三回忌 - 1930年10月03日
二十五回忌 - 1932年10月03日
二十七回忌 - 1934年10月03日
三十三回忌 - 1940年10月03日
五十回忌 - 1957年10月03日
百回忌 - 2007年10月03日
百五十回忌 - 2057年10月03日
二百回忌 - 2107年10月03日
三百回忌 - 2207年10月03日
神式の場合
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十日祭 - 1908年10月12日
二十日祭 - 1908年10月22日
三十日祭 - 1908年11月01日
四十日祭 - 1908年11月11日
五十日祭 - 1908年11月21日
一年祭 - 1909年10月03日
三年祭 - 1911年10月03日
五年祭 - 1913年10月03日
十年祭 - 1918年10月03日
二十年祭 - 1928年10月03日
三十年祭 - 1938年10月03日
四十年祭 - 1948年10月03日
五十年祭 - 1958年10月03日
百年祭 - 2008年10月03日
百五十年祭 - 2058年10月03日
二百年祭 - 2108年10月03日
三百年祭 - 2208年10月03日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1908年10月05日
追悼ミサ(七日目) - 1908年10月09日
追悼ミサ(三十日目) - 1908年11月01日
死者記念のミサ(一年目) - 1909年10月03日
死者記念のミサ(十年目) - 1918年10月03日
死者記念のミサ(二十年目) - 1928年10月03日
死者記念のミサ(五十年目) - 1958年10月03日
死者記念のミサ(百年目) - 2008年10月03日
死者記念のミサ(二百年目) - 2108年10月03日
死者記念のミサ(三百年目) - 2208年10月03日
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詳細
有川矢九郎さんについて
有川 矢九郎(ありかわ やくろう)
天保2年9月14日に誕生。
有川家累代の家継圖によると、文政12年(1829年)己丑(つちのと うし)9月14日生まれとなっており、享年78歳から数えると、文政12年生まれが正しいと思われる。
グレゴリオ暦1829年10月11日生まれ。
始 二之介、後 矢九郎。 実名は、貞實(さだみ)。
明治41年10月3日死去。享年78歳。
幕末から明治時代の薩摩藩士、武士・実業家。
父は、有川貞馨(始 清七郎、後 六右衛門)、母は吉田六郎右衛門の娘、志津子。
兄に有川 十右衛門(ありかわ じゅううえもん)隠居名:雪山が居る。
文化8年辛未(かのと ひつじ)1月12日生まれ。グレゴリオ暦1811年2月6日生まれ。
父貞馨の弟である貞幹の継目養子となる。
薩摩藩海軍として活躍し、戊辰戦争では軍船掛(船奉行)として藩軍兵の輸送を担い、薩英戦争では談合役(参謀)として指揮を執った。
元治元年(1864年)に「胡蝶丸」の艦長、のち薩摩藩海軍軍艦の蒸気船「三邦丸」艦長を務めた。
藩の命を受けて幕末の大阪や江戸を何度も航海していたことは無論のこと、西郷隆盛が遠島先から帰る、迎えの船が「胡蝶丸」であり、坂本龍馬の妻おりょうと新婚旅行で薩摩に向かって乗った船も「三邦丸」である。
明治5年(1872年)には「三邦丸」の払い下げを受け、海運業を設立。明治6年(1873年)には大蔵省から「鹿児島丸」の貸与を受け、同年には官(県庁)の所有地であった旧伊敷村の不動堂(現在の梅ヶ渕不動堂)を購入して、別邸を建てている。
明治7年には、台湾出兵に際して兵員の輸送にもあたり、海運業は、主に台湾やフィリピンなどと交易し、実業家としても成功した。
また、遠戚にあたる岩山八郎太直温の二女である糸子を西郷隆盛の妻として紹介したことでも知られる。
西郷南洲翁の撰文または書になる漢文碑は、7基あり、その中の1つに明治7年甲戌9月下旬に書いた、「有川矢九郎頌徳碑」がある。
現在は、西郷南洲顕彰館の敷地に移設され、保存されている。現在 家督は銀行家・弁護士の有川小三氏の孫である、有川 貞美氏が継いでいる。
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