今井五介
いまい ごすけ
1859 - 1946
実業家
- 亡くなってから78年132日過ぎました。
- 86歳で亡くなりました。
- 1859年11月15日に誕生、1946年07月09日に亡くなりました。
- 生誕161年が経過しました。没後74年が経過しました。
暮らした時代は、安政 から 昭和 です。一覧
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今井五介さんの暮らした時代を表示しています。
安政(146日)
万延(356日)
文久(3年0日)
元治(2年36日)
慶応(4年177日)
明治(45年197日)
大正(15年151日)
昭和(20年202日)
- 次の法要は21年239日後、2045年07月09日の百回忌です 一覧
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今井五介さんの主な法要の日を表示しています。
命日は07月09日です。
仏式の場合
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初七日 - 1946年07月15日
四十九日 - 1946年08月26日
百か日 - 1946年10月16日
一周忌 - 1947年07月09日
三回忌 - 1948年07月09日
七回忌 - 1952年07月09日
十三回忌 - 1958年07月09日
十七回忌 - 1962年07月09日
二十三回忌 - 1968年07月09日
二十五回忌 - 1970年07月09日
二十七回忌 - 1972年07月09日
三十三回忌 - 1978年07月09日
五十回忌 - 1995年07月09日
百回忌 - 2045年07月09日
百五十回忌 - 2095年07月09日
二百回忌 - 2145年07月09日
三百回忌 - 2245年07月09日
神式の場合
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十日祭 - 1946年07月18日
二十日祭 - 1946年07月28日
三十日祭 - 1946年08月07日
四十日祭 - 1946年08月17日
五十日祭 - 1946年08月27日
一年祭 - 1947年07月09日
三年祭 - 1949年07月09日
五年祭 - 1951年07月09日
十年祭 - 1956年07月09日
二十年祭 - 1966年07月09日
三十年祭 - 1976年07月09日
四十年祭 - 1986年07月09日
五十年祭 - 1996年07月09日
百年祭 - 2046年07月09日
百五十年祭 - 2096年07月09日
二百年祭 - 2146年07月09日
三百年祭 - 2246年07月09日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1946年07月11日
追悼ミサ(七日目) - 1946年07月15日
追悼ミサ(三十日目) - 1946年08月07日
死者記念のミサ(一年目) - 1947年07月09日
死者記念のミサ(十年目) - 1956年07月09日
死者記念のミサ(二十年目) - 1966年07月09日
死者記念のミサ(五十年目) - 1996年07月09日
死者記念のミサ(百年目) - 2046年07月09日
死者記念のミサ(二百年目) - 2146年07月09日
死者記念のミサ(三百年目) - 2246年07月09日
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1時間:0人 1日:0人 1週:2人 1カ月:4人 1年:86人
詳細
今井五介さんについて
江戸時代末の1859年(安政6年)、信濃国諏訪郡三沢村(明治以降は長野県諏訪郡川岸村)の豪農の家に生まれる。実父は1873年(明治6年)に諏訪郡川岸村(現在の岡谷市川岸)で座繰製糸を開始し、現在の片倉工業の実質的な創業者となった片倉市助で、五介は三男。市助の長男である初代片倉兼太郎は実兄で、市助の四男宗弘として生まれ、初代片倉兼太郎の養嗣子(家督相続権のある養子)となった二代目片倉兼太郎(片倉佐一)は実弟。
海外への留学などを経て、1877年(明治10年)に今井太郎の養嗣子となり、1890年(明治23年)には現在のイオンモール松本の敷地にあった松本片倉清水製糸所の初代工場長に就任。1895年(明治28年)に初代片倉兼太郎とともに片倉組を設立し、1904年(明治37年)に松本片倉清水製糸所は松本製糸場に改称。1909年(明治42年)には松本商工会議所初代会頭、および松本地域でいち早く発送電事業を開始した松本電燈の社長に就任し、合併を主導して経営再建に尽力した。1914年(大正3年)には現在のJR大糸線である信濃鉄道の社長となり、松本駅-信濃大町駅を結ぶ区間を開通させたほか、経営難におちいっていた私塾「松本戊戌学校」を支援し、「松本商業学校(現在の学校法人松商学園および松商学園高等学校)」として生まれ変わらせている。また、合資会社大日本一代交配蚕種普及団の初代団長に就任している。
1920年(大正9年)に片倉組を継ぐ形で設立された片倉製糸紡績株式会社の副社長に就任。さらに、大日本蚕糸会の会長、全国蚕糸業組合連合会の会長を務め、1930年(昭和5年)には松本製糸場の南に蚕業試験所を設立するなど、製糸業の発展に尽力した。1946年(昭和21年)没。
絹糸は明治期から大正期にかけての日本の主力輸出品であったことから、原料の繭を生み出す蚕の品種改良などにも取り組んでいて、病気に強く収量の多い繭を生産できる一代交雑種の作出に成功。合資会社大日本一代交配蚕種普及団の初代団長として一代交雑種の普及と養蚕農家の支援に力を注ぎ、「カタクラシルク」と呼ばれる高品質の絹糸の生産と輸出によって片倉組は世界有数の製糸会社に成長。片倉製糸紡績設立後は様々な事業に進出し、片倉財閥を形成する大企業となったが、戦後の財閥解体によって片倉財閥は解体され、片倉製糸紡績は片倉工業となっている。
松本市の蚕糸記念公園には、1928年(昭和3年)に建立された「蚕業革新発祥記念碑」がある。また、初代所長を務めた松本片倉清水製糸所(後の松本製糸場)の工場敷地内で大切に育てられていたクロマツの木は「五介の松」と呼ばれており、松本地域の製糸業の歴史を伝える存在として片倉工業から松本市に寄贈され、2015年(平成27年)5月に松本市島立にある「歴史の里」へ移植されている。
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