山田武甫
やまだ たけとし
1831 - 1893
明治期の政治家
- 亡くなってから131年285日過ぎました。
- 62歳で亡くなりました。
- 1831年に誕生、1893年02月23日に亡くなりました。
- 生誕189年が経過しました。没後127年が経過しました。
- 次の法要は17年85日後、2042年02月23日の百五十回忌です 一覧
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山田武甫さんの主な法要の日を表示しています。
命日は02月23日です。
仏式の場合
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初七日 - 1893年03月01日
四十九日 - 1893年04月12日
百か日 - 1893年06月02日
一周忌 - 1894年02月23日
三回忌 - 1895年02月23日
七回忌 - 1899年02月23日
十三回忌 - 1905年02月23日
十七回忌 - 1909年02月23日
二十三回忌 - 1915年02月23日
二十五回忌 - 1917年02月23日
二十七回忌 - 1919年02月23日
三十三回忌 - 1925年02月23日
五十回忌 - 1942年02月23日
百回忌 - 1992年02月23日
百五十回忌 - 2042年02月23日
二百回忌 - 2092年02月23日
三百回忌 - 2192年02月23日
神式の場合
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十日祭 - 1893年03月04日
二十日祭 - 1893年03月14日
三十日祭 - 1893年03月24日
四十日祭 - 1893年04月03日
五十日祭 - 1893年04月13日
一年祭 - 1894年02月23日
三年祭 - 1896年02月23日
五年祭 - 1898年02月23日
十年祭 - 1903年02月23日
二十年祭 - 1913年02月23日
三十年祭 - 1923年02月23日
四十年祭 - 1933年02月23日
五十年祭 - 1943年02月23日
百年祭 - 1993年02月23日
百五十年祭 - 2043年02月23日
二百年祭 - 2093年02月23日
三百年祭 - 2193年02月23日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1893年02月25日
追悼ミサ(七日目) - 1893年03月01日
追悼ミサ(三十日目) - 1893年03月24日
死者記念のミサ(一年目) - 1894年02月23日
死者記念のミサ(十年目) - 1903年02月23日
死者記念のミサ(二十年目) - 1913年02月23日
死者記念のミサ(五十年目) - 1943年02月23日
死者記念のミサ(百年目) - 1993年02月23日
死者記念のミサ(二百年目) - 2093年02月23日
死者記念のミサ(三百年目) - 2193年02月23日
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詳細
山田武甫さんについて
山田武甫は憲政の殊勲者といわれている。
彼は天保二年(1831)十二月、熊本藩に生れた。はじめの名は牛島五次郎。天保九年八歳の時、時習館に入って勉学、嘉永三年、二十歳の時、横井小楠の門に入った。小楠は彼が情義に厚く至誠のふかいのを知って目をかけ、よく導いてやったようである。嘉永五年、二十二歳の時山田家を嗣いで、これより山田武甫と名を改めた。
時あたかも幕末の物情騒然たる時代である。彼はこの時代をバックに大いにうごいた。ことに幕府が長州征伐の命をくだした時は、彼は喜悦氏房らの同志とともに或は藩中の論議をまとめ、或は上洛して土佐の坂本龍馬や薩摩の西郷隆盛らと会談し束西に奔走したものである。彼の主張は名分を明らかにして長州の非を一たび正した上は、快くこれと和し、薩長肥の三雄藩が手をくんで勤王の師をおこして天下を平定しようというにあつた。越前の中根雪江もしきりにあっせんし、薩摩またこれに同意して彼の説にまとまったのであるが、出陣した幕府軍の無力を見た薩摩は、にわかに一たん約束した前言をひるがえしてしまった。そこで彼らは歯かみして残念がり、いそぎ国へ帰り、征長の軍に加わって、機を見て適宜の処置を、つまり講和をはかろうと苦心したのである。しかし、長藩の方ではそういう苦心は知らず、高杉晋作らがきて肥後の陣を襲ったので、彼らはやむなくこれを討って退けた。
そのうちに時勢は日に迫り鳥羽の変となった。しかも熊本の藩論はなお佐幕派が勢力つよくややもすれば国をあやまろうとするので、彼らはすこぶる心をいためたものである。聡明な護久公はこの間にあってよく状勢を洞察して武甫らの説を用い、ようやく維新の大業にあって面目を維持することが出来た。
やがて護久は長岡是容をあげて藩政をとらせた。武甫は小参事に任せられ、郡政係というものになつた。そこで彼は藩内を巡視してその夷状を視察し、百姓が苛税に苦しんでいるのを見て「今日更始の際、まず雑税を全免じて百姓を救い、人民に仁政のめぐみを与えていただきたい」と意見具申した。同僚いずれも実学派の人々であつたが、このことは藩費の欠乏をきたす心配があるとて、はげしく反対した。しかし彼は少しも退かず論筆実に三一十日に亘り、護久公もこれを諒として彼の議が通り農民が助かった。彼はこの外、民情を察し、平民が木履や雨傘を禁ぜられ、また衣服にも制限があるのを、四民平等の立場から本可としてその差別撤廃を叫び、これも採用された。またこれまでの郡代や総庄屋などの制度を廃し、それを簡易にしたのも彼の力であつた。
明冶四年、廃藩置県となって彼は熊本県参事に昇任じた。彼はこの間に時習館、再春館を廃し、新たに熊本洋学校と医学校を創立した。横井大平ら急進青年の意見をすすんで用いたところに彼の見識と雅量を見られよう。すなはち洋学校にはジェンズを、医学校にはマスンフェルドをよんですえた。
明治七年、四十四歳の時、彼は敦賀県令に任ぜられた。がやがて九年、敦賀県が廃止されたので以後彼は断然仕官をやめ、熊本に帰って実業界に入り、蚕糸業をおこし、桑茶の畑をひらき、蚕業会社の社長になった。一方西南役のあと、県下の人心の動向を察して共立学舎を創立し教育に力をつくした。この間、しばらく熊本師範学校の校長に任ぜられたこともある。
明治十四年、旧友安場保和が帰省し、それが機となって紫浜会を創設することになつた。彼は宮川房之や嘉悦氏房、徳富一敬らと安場にあって議論を重ねた末、一たびは発起人に名をつらねたが、やがて安場らの考うるところ、なすところが官権体護にあると見て、幾月ならずして分離し、別に同志と立憲自由党をつくり、漸次九州の自由主義諸政党と気脈を通じ、ついに同志大懇親会を熊本にひらいて九州改進党を組織した。
明冶二十三年四月、彼は鹿児島に同志連合大会をひらいて気勢をあげ、七月一日行われた第一期衆議院議員に当選し、上京して立憲自由党結成のため奔走、九月十五日の結党式には百三十名の代議士をもつて議会にのぞんだ。議会開会後、自由党内に紛争がおこり、彼は河野広中や松田正久らと共に板垣伯を訪うて講するところあり、翌年四月の大阪大会では大井憲太郎らの反対派を向うにまわしてついに板垣伯を総理に推した。
明冶二十五年、再度衆議院議員に当選、この時の第三議会では議長侯補になった。第四議会のはじめから病気にかかったが予算案上奏のため病をおして出席したのがもとで、重態となり、明治二十六年(1893)二月二十三日逝去した。六十三であった。
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