山崎片家
やまざき かたいえ
1547 - 1591
室町末~安土桃山時代の武将
- 亡くなってから433年213日過ぎました。
- 44歳で亡くなりました。
- 1547年に誕生、1591年05月21日に亡くなりました。
- 生誕473年が経過しました。没後429年が経過しました。
暮らした時代は、天文 から 天正 です。一覧
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山崎片家さんの暮らした時代を表示しています。
天文(9年313日)
弘治(3年133日)
永禄(13年74日)
元亀(4年92日)
天正(18年274日)
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山崎片家さんの主な法要の日を表示しています。
命日は05月21日です。
仏式の場合
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初七日 - 1591年05月27日
四十九日 - 1591年07月08日
百か日 - 1591年08月28日
一周忌 - 1592年05月21日
三回忌 - 1593年05月21日
七回忌 - 1597年05月21日
十三回忌 - 1603年05月21日
十七回忌 - 1607年05月21日
二十三回忌 - 1613年05月21日
二十五回忌 - 1615年05月21日
二十七回忌 - 1617年05月21日
三十三回忌 - 1623年05月21日
五十回忌 - 1640年05月21日
百回忌 - 1690年05月21日
百五十回忌 - 1740年05月21日
二百回忌 - 1790年05月21日
三百回忌 - 1890年05月21日
神式の場合
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十日祭 - 1591年05月30日
二十日祭 - 1591年06月09日
三十日祭 - 1591年06月19日
四十日祭 - 1591年06月29日
五十日祭 - 1591年07月09日
一年祭 - 1592年05月21日
三年祭 - 1594年05月21日
五年祭 - 1596年05月21日
十年祭 - 1601年05月21日
二十年祭 - 1611年05月21日
三十年祭 - 1621年05月21日
四十年祭 - 1631年05月21日
五十年祭 - 1641年05月21日
百年祭 - 1691年05月21日
百五十年祭 - 1741年05月21日
二百年祭 - 1791年05月21日
三百年祭 - 1891年05月21日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1591年05月23日
追悼ミサ(七日目) - 1591年05月27日
追悼ミサ(三十日目) - 1591年06月19日
死者記念のミサ(一年目) - 1592年05月21日
死者記念のミサ(十年目) - 1601年05月21日
死者記念のミサ(二十年目) - 1611年05月21日
死者記念のミサ(五十年目) - 1641年05月21日
死者記念のミサ(百年目) - 1691年05月21日
死者記念のミサ(二百年目) - 1791年05月21日
死者記念のミサ(三百年目) - 1891年05月21日
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詳細
山崎片家さんについて
父 山崎宗家
母 不詳
官位 従五位下 志摩守
通称 源太左衛門
子
家盛
本庄郷高(本庄秀国養子)
宮城頼久(宮城豊盛養子)
娘(加藤清正室)
百助(加藤清正養子のち離縁)
娘(別所吉治室)
六角義賢より偏諱を受け山崎賢家(かたいえ)と称する。義賢の子である六角義治に仕えていたが、永禄6年(1563年)の観音寺騒動では六角氏と対立。
永禄11年(1568年)9月に織田信長の近江侵攻に際し、六角家を見限り、親族の宮木氏と共に信長に降る。そのとき、片家と改名。
元亀元年(1570年)姉川の戦いに加わる。
元亀4年(1573年)4月、信長に従い京都の上京焼き討ちと二条城包囲に参加。
天正元年(1573年)7月、信長に従って将軍・足利義昭の槇島城を攻める。同年の浅井攻めにも参加。
天正9年(1581年)9月の伊賀攻めでは信楽口からの侵入を務めた。
天正10年(1582年)4月、武田征伐から凱旋する信長を在所の山崎で茶屋を設けて饗応する。
同年6月2日
本能寺の変の報に接し、その夜
近江国安土城内の自邸に火をかけ、本拠地の山崎城へ。
同年6月4日
明智光秀に与し、近江国佐和山城に入城。
しかし本心ではなく、仕方なき仕儀であることを秀吉に通報。同心を誓う。
山崎合戦後には秀吉に合流。
同年冬、摂津三田城主2万3000石に移封される。、
同年10月
近江国内の城の守備を厳重にする様に秀吉より指示を受ける。
柴田討伐後、瀧川討伐に従軍。
1583年3月
伊勢国へ攻め入る。
同年8月1日 近江愛智郡内で1万4000石の知行を安堵される。
1584年3月
伊勢国攻略に従う。
小牧長久手の戦いでは織田信雄から離反し、兵750で秀吉方に従軍。
1584年7月
河内国の一部領有を認められる。
1584年~86年
大坂開催の津田宗及の茶会に列席。
1588年4月
聚楽行幸に参列。
北条討伐
兵900で従軍。
40歳弱で病を患うも飲酒が止められず、両足が腫れ立ち上がれなくなる。診察に来た曲直瀬道三から『すぐに完治せずに次に腹が膨れてくるであろう』との診断を受けたが、彼は食欲もあり、歩行するにも障害がなくなった為、酒友の医師三名と共に酒を交わした。
道三の診断1ヵ月後に腹部が硬くなり、食が細くなり呼吸が浅くなった。それを受け、酒友の医師が投薬を二十日間、次の酒友の医師も投薬を二十日間続けたが、腫れが更に悪化した。最後の酒友の医師も投薬したが一向に改善しなかった。
藁にもすがる想いで道三に治療を依頼するが既に投薬が出来る状態になく、20日後の天正19年3月28日(1591年5月21日)に没す。
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