まいり
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橘曙覧

たちばな あけみ
1812 - 1868
江戸末期の歌人、国学者 歌集「独楽吟」
橘曙覧さんについて
「たのしみは」とはじめて、「時」と結ぶ。橘曙覧は生きる喜びを同じ体裁で詠んだ。
2024.10.02 ID:1468960
橘曙覧は歌人としてだけではなく「国学」も勉強していました。彼の師は飛騨高山に住む「田中大秀」と言う人で、この人は本居宣長の弟子です。石橋重吉の著書「継体天皇と越前」によれば、彼の師「田中大秀」は継体天皇の御世系が知られていない事を遺憾に思い、「釈日本記」の中に引用されている「上宮記逸文」をもとに継体天皇の系譜を明らかにした「玉穂宮考」を書きました。 そして、弟子である橘曙覧に対して「国に帰って継体天皇に関係の深い「足羽神社」の馬来田宮司と相談して碑を建て、越前の人たちに知らしめるように」と言われました。 そして橘曙覧は師の志を受けて、馬来田(まくだ)宮司や同門の門人らと相談して足羽神社境内に継体天皇の御世系文が書かれた石碑を建立したと書かれています。 この石碑は現在も境内に立っています。
2024.08.12 ID:1467269
今年もお盆が近づいて来ました。

橘曙覧を慕いて…
「たのしみは 藁屋に住みて 清げなる
  あまたさぶらふ 夢を見るとき」

紫式部を偲びて…
「桐壺の 時めき給ふ ものがたり
  千年過ぐとも まひろありなん」
2024.08.05 ID:1467086
慶応4年・・橘曙覧は病死します。当時の一番弟子は河津直人(1824~1903)でした。福井藩士で藩校明道館の句読師でした。94人の門弟の中でも橘曙覧が特に目をかけていたのが河津直人でした。
 明治13年・・歌人の佐佐木弘綱は、当時9歳の長男信綱を連れて三重から福井を訪れました。曙覧はすでに亡くなっていたので、弘綱は門人の河津直人に会いました。その時に橘曙覧の遺歌集「志濃夫廼舎歌集」を受け取りました。
 明治29年・・「志濃夫廼舎歌集」は、佐佐木信綱から阪井久良岐に渡され、久良岐から正岡子規に紹介されました。明治30年代に日本新聞社の記者だった正岡子規は、橘曙覧を歌人として賞賛しました。斉藤茂吉もまた著書「近世歌人評伝」の中で橘曙覧を取り上げました。橘曙覧の新しい自由な境地に驚嘆しました。
 このような出会いがあって、橘曙覧は幕末の歌人でありながら、明治歌人の仲間として広く知られることになったのです。橘曙覧先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
2024.08.04 ID:1467065
橘曙覧研究会の先生方…東出先生、柴田先生、前川先生…お元気ですか? 私も恋の歌で詠んでみました。

「たのしみは 知らえぬ恋に おもひしみ
  おもひなぐさむ 歌をよむとき」
「たのしみは 清らな姫に 賤の男が
  古しへは今はと 語りあふとき」
2022.07.21 ID:1407356
新型コロナが福井では急速に拡大中です。
もう当分福井へは行けそうもありません。
東出先生や柴田先生、お元気でしょうか?
「橘曙覧研究・第6号」久しぶりに拝見しました。
福井を遠く離れても、先生方の御恩は忘れません。
橘曙覧先生、安らかにお休み下さい。
2021.01.04 ID:1173258
🎍あけましておめでとうございます!🧓
橘曙覧記念文学館の東出市二郎先生は私の恩師です。
橘曙覧研究会は先生の御自宅で毎月開催されます。
東出先生・柴田先生・正玄先生お元気でしょうか?
福井から遠く離れても先生方のことは忘れません。
橘曙覧の和歌は全て好きです。特に好きな歌は・・

🎍正月ついたちの日、古事記をとりて
「春にあけて先ず看る書も天地(あめつち)の
        始めの時と読みいつるかな」
🧙‍♂️「我とわがこころのうちに語らへば
        ひとりある日も友はあるもの」
⛄「たのしみは雪ふるよさり酒の糟
        あぶりて食ひて火にあたる時」
🍙「たのしみは妻子むつまじくうちつどひ
        頭ならべて物をくふ時」
🍑「足羽川流れにそひてさく桃の
        花は何所を限りなるらん」

足羽川は福井中心部を流れる川です。曙覧宅近くです。
現在は桜並木ですが、当時は武陵桃源と言われました。
現在でも足羽川周辺には桃園町の名が残されています。
厳しい封建社会の中で、身分や職業・性別を越えて
橘曙覧は交友を広めました。ご冥福をお祈りします。
2020.12.25 ID:1166361
🎅Merry Christmas!橘曙覧先生🎄🎁
⛄お正月も近づいてきました😃
💫福井を見守っていて下さい✨
2020.06.29 ID:633353
橘曙覧フアン
★福井市足羽山(愛宕坂)に「橘曙覧記念文学館」はあります。観覧料100円です。藁屋復元コーナーでは当時の様子がそのままに再現されます。「たのしみはまれに魚烹て児等皆が うましうましといひて食ふ時」「たのしみは紙をひろげてとる筆の 思いの外に能くかけし時」橘曙覧は食の楽しみや労働風景だけでなく、庶民の生活の隅々までもを詠います。足羽山には茶道美術館や自然史博物館だけでなく、第26代継体天皇像石碑などがあり、博物館の天文台からは福井市内が一望でき、疲れた現代人の心を安らげてくれます。
★1843年6月11日、まだ若き松平慶永公が福井へ初めてお国入りした様子を、橘曙覧は長歌として残しています。千人に及ぶ雄々しくも美々しい延々の行列。若き藩主の聡明で初々しい姿に人々は熱狂します。庶民たちのどよめきやため息が生々しく描かれ、現代の私たちもがその世界に酔いしれてしまいそうです。橘曙覧は三女健子(当時3歳)を伴って九十九橋の近くで行列を眺めていたと思われます。翌年に健子は天然痘で亡くなり、健子の墓には「きのふまで吾が衣手にとりすがり 父よ父よといひしものを」曙覧は自筆の文字でこう書いています。
2020.06.21 ID:630220
橘曙覧フアン
★橘曙覧は幕末の福井に生まれた偉大な歌人です。1865年藩主・春嶽公は曙覧の藁家を訪ね登城をすすめましたが、橘曙覧はあくまでも孤高の立場をとり、貧困の生活に身を置いて、自由に生きて自由に詠む生活を大事にしました。春嶽公もそのことを理解し、お互いに歌を詠みあって互いの気持ちを伝えています。
★1868年橘曙覧は明治改元を目前にしてこの世を去りました。遺歌集「志濃夫廼舎歌集」は、正岡子規など多くの後進から近世末期の代表的歌人として高く評価されました。
★歌の中で最も親しまれているのは「独楽吟」52首の連作です。1994年に天皇皇后両陛下がアメリカを訪問した際、クリントン大統領は歓迎スピーチで、橘曙覧の歌を引用しました。「たのしみは朝おきいでて昨日まで 無かりし花の咲ける見る時」、これをきっかけに橘曙覧の名は世界中に知られることとなり、生家近くの足羽山には「福井市橘曙覧記念文学館」が完成しました。今でも「橘曙覧研究会」は毎月開催されています。「たとえ貧しくとも、曙覧の心は風流を理解し優雅である。これが大変慕わしい」と春嶽公は言い残しています。
★どうぞいつまでも安らかにお眠り下さい。
 ID:99377
お悔やみ申し上げます
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