多賀工業専門学校機械科(現茨城大学工学部)を卒業後、戦後間もない1948年(昭和23年)に日産重工業(現日産自動車)に入社。設計部実験課の一員として乗用車の開発に携わったが、製造する車両の世界でのレベルを知るべく、1958年に当時の国際ラリーの中でも最も過酷であると言われたオーストラリア一周ラリー、モービルガス・トライアルに自らドライバーとしてダットサン210『富士号』を駆り出場した。
ともに出場した『桜号』とともに、19日間のラリーを戦った難波さんドライブの富士号は、外国車を打ち破りクラス優勝を達成。日本凱旋後は各地でパレードを行い、日本車の優秀性、丈夫さを証明。その後の日産車の海外輸出に大きく貢献するとともに、日本のモータースポーツの発展の礎を築いた。(
オートスポーツウェブより引用)