早稲田大を卒業後、館林市内の小中学校で教師を務めた。在職中の一九七三年、水俣病の全国大会に参加し、日本の近代化に伴って起きた足尾鉱毒事件の研究に没頭した。正造の思想と運動を継承する市民団体「渡良瀬川研究会」を結成し、代表として公害の研究に傾注した。
東京電力福島第一原発事故後、鉱毒事件による農作物被害や栃木県の旧谷中村の廃村などと重ね、「人災の頂点」と訴えた。
著書に「田中正造と天皇直訴事件」や、東京新聞の堀内洋助カメラマンが写真を担当した「田中正造と足尾鉱毒事件を歩く」などがある。(
東京新聞より引用)