藤井将雄
ふじい まさお
1968 - 2000
プロ野球選手 投手 元ダイエー(現ソフトバンク)
- 亡くなってから24年151日過ぎました。
- 31歳で亡くなりました。現在の年齢は56歳です。
- 1968年10月16日に誕生、2000年10月13日に亡くなりました。
- 生誕52年が経過しました。没後20年が経過しました。
- 暮らした時代は、昭和(21年89日)、平成(12年282日) です。
- 次の法要は2年214日後、2026年10月13日の二十七回忌です 一覧
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藤井将雄さんの主な法要の日を表示しています。
命日は10月13日です。
仏式の場合
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初七日 - 2000年10月19日
四十九日 - 2000年11月30日
百か日 - 2001年01月20日
一周忌 - 2001年10月13日
三回忌 - 2002年10月13日
七回忌 - 2006年10月13日
十三回忌 - 2012年10月13日
十七回忌 - 2016年10月13日
二十三回忌 - 2022年10月13日
二十五回忌 - 2024年10月13日
二十七回忌 - 2026年10月13日
三十三回忌 - 2032年10月13日
五十回忌 - 2049年10月13日
百回忌 - 2099年10月13日
百五十回忌 - 2149年10月13日
二百回忌 - 2199年10月13日
三百回忌 - 2299年10月13日
神式の場合
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十日祭 - 2000年10月22日
二十日祭 - 2000年11月01日
三十日祭 - 2000年11月11日
四十日祭 - 2000年11月21日
五十日祭 - 2000年12月01日
一年祭 - 2001年10月13日
三年祭 - 2003年10月13日
五年祭 - 2005年10月13日
十年祭 - 2010年10月13日
二十年祭 - 2020年10月13日
三十年祭 - 2030年10月13日
四十年祭 - 2040年10月13日
五十年祭 - 2050年10月13日
百年祭 - 2100年10月13日
百五十年祭 - 2150年10月13日
二百年祭 - 2200年10月13日
三百年祭 - 2300年10月13日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 2000年10月15日
追悼ミサ(七日目) - 2000年10月19日
追悼ミサ(三十日目) - 2000年11月11日
死者記念のミサ(一年目) - 2001年10月13日
死者記念のミサ(十年目) - 2010年10月13日
死者記念のミサ(二十年目) - 2020年10月13日
死者記念のミサ(五十年目) - 2050年10月13日
死者記念のミサ(百年目) - 2100年10月13日
死者記念のミサ(二百年目) - 2200年10月13日
死者記念のミサ(三百年目) - 2300年10月13日
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1時間:0人 1日:0人 1週:1人 1カ月:18人 1年:299人
詳細
藤井将雄さんについて
佐賀県出身。唐津商業高校・日産自動車九州を経て1994年のドラフトで福岡ダイエーホークス(現:福岡ソフトバンクホークス)から4位で指名され入団。同期には強打の捕手として鳴らしメジャーにも挑戦した城島健司や内野のユーティリティとして長年活躍した本間満がいる。
5年目の1999年にブレイクし59試合に登板。71回2/3を投げて防御率2.89、当時パ・リーグ最多となる26ホールドを達成して最優秀中継ぎを受賞した。その闘志をむき出しにした投球スタイルから「炎の中継ぎ」と称され、同年のダイエーのリーグ制覇・日本一に貢献した。
ところが、同年の日本シリーズの前に実施された健康診断で肺に影が確認され、その後の精密検査で肺癌と診断され余命宣告も下されてしまう。このことは家族の意向で秘匿され、藤井本人をはじめとする周囲には回復率が肺癌よりもやや高い「間質性肺炎」だと伝えられた。
翌2000年、藤井は病魔と闘いながら2軍で6試合を投げたがその後入院、チームがリーグ2連覇を成し遂げるのを見届け、この世を去った。
藤井の没後、背番号15を背負った選手は2021年現在一人もいない。また、死のおよそ1週間前のリーグ制覇の際には親友だった若田部健一の計らいで藤井の背番号「15」のユニフォームを纏ったハリーホーク(ダイエー球団マスコット)の人形が胴上げに掲げられ、「藤井ハリー」と呼ばれている。
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