山口県田布施村出身。小林多喜二虐殺の現場最高責任者。警視総監、内務大臣を歴任。1932年、警視庁において初代特別高等警察部長となり、赤色ギャング事件や日本共産党査問リンチ事件を通じて「赤狩り安倍」の名を轟かせた。安倍が特高部長であった1933年には、19人が特高警察の過酷な取調べで死亡しており(19人は戦前で最多)、その中にはプロレタリア文学作家の小林多喜二も含まれている。戦後A級戦犯容疑者の一人として逮捕されたが、東條英機ら7人の死刑執行の翌日の1948年12月24日、不起訴・釈放。その後、岸信介・木村篤太郎・安岡正篤らと共に右翼の結集体『新日本協議会』を結成し代表理事に就任、児玉誉士夫らとともにCIA協力メンバーと目され戦後日本政治の“陰”の存在として生きた。のちに全国警友会連合会会長、東京都警友会会長、松陰会会長を歴任した。従三位勲一等に叙位・叙勲される。1956年の第4回参議院議員通常選挙に自由民主党公認で山口地方区から立候補したが落選。
安倍源基 - Wikipedia
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