皇族、海軍軍人。幼称は光宮(てるのみや)。大正天皇の第3皇子、母は貞明皇后。昭和天皇は兄にあたる。1913年、大正天皇の命で有栖川宮の祭祀を継承し、高松宮の号を与えられた。
1920年、学習院中等科三年を退学して、海軍兵学校に入学。1930年、徳川慶喜の孫である喜久子と結婚した。1941年、太平洋戦争開戦にあたっては、昭和天皇に開戦を中止するよう訴える。戦争末期には早期終戦工作に奔走、天皇の退位も構想した。
戦後はスポーツ、国際親善交流、厚生、美術工芸など、多岐にわたって活動。中でも競馬の「高松宮記念」はよく知られている。没後、1921年~1947年分の日記が『高松宮日記』全8巻として刊行された。
高松宮宣仁親王 - Wikipedia