大妻コタカ
おおつまこたか
1884 - 1970
大妻学院創立者
- 命日まであと47日です。
- 亡くなってから54年319日過ぎました。
- 85歳で亡くなりました。
- 1884年06月21日に誕生、1970年01月03日に亡くなりました。
- 生誕136年が経過しました。没後50年が経過しました。
暮らした時代は、明治 から 昭和 です。一覧
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大妻コタカさんの暮らした時代を表示しています。
明治(29年45日)
大正(15年151日)
昭和(44年21日)
- 次の法要は44年58日後、2069年01月03日の百回忌です 一覧
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大妻コタカさんの主な法要の日を表示しています。
命日は01月03日です。
仏式の場合
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初七日 - 1970年01月09日
四十九日 - 1970年02月20日
百か日 - 1970年04月12日
一周忌 - 1971年01月03日
三回忌 - 1972年01月03日
七回忌 - 1976年01月03日
十三回忌 - 1982年01月03日
十七回忌 - 1986年01月03日
二十三回忌 - 1992年01月03日
二十五回忌 - 1994年01月03日
二十七回忌 - 1996年01月03日
三十三回忌 - 2002年01月03日
五十回忌 - 2019年01月03日
百回忌 - 2069年01月03日
百五十回忌 - 2119年01月03日
二百回忌 - 2169年01月03日
三百回忌 - 2269年01月03日
神式の場合
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十日祭 - 1970年01月12日
二十日祭 - 1970年01月22日
三十日祭 - 1970年02月01日
四十日祭 - 1970年02月11日
五十日祭 - 1970年02月21日
一年祭 - 1971年01月03日
三年祭 - 1973年01月03日
五年祭 - 1975年01月03日
十年祭 - 1980年01月03日
二十年祭 - 1990年01月03日
三十年祭 - 2000年01月03日
四十年祭 - 2010年01月03日
五十年祭 - 2020年01月03日
百年祭 - 2070年01月03日
百五十年祭 - 2120年01月03日
二百年祭 - 2170年01月03日
三百年祭 - 2270年01月03日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1970年01月05日
追悼ミサ(七日目) - 1970年01月09日
追悼ミサ(三十日目) - 1970年02月01日
死者記念のミサ(一年目) - 1971年01月03日
死者記念のミサ(十年目) - 1980年01月03日
死者記念のミサ(二十年目) - 1990年01月03日
死者記念のミサ(五十年目) - 2020年01月03日
死者記念のミサ(百年目) - 2070年01月03日
死者記念のミサ(二百年目) - 2170年01月03日
死者記念のミサ(三百年目) - 2270年01月03日
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1時間:0人 1日:0人 1週:0人 1カ月:9人 1年:127人
詳細
大妻コタカさんについて
1884年、広島県世羅郡甲山町(現在の世羅町)に生まれる。名前の由来は、6月の農繁期に6人兄弟の末っ子として生まれた女児であったため、「忙しい時に『困った児』」が訛ったもの。農繁期であったため、出生届の提出が遅れ、入籍されたのは11月20日。生前「私には年に2回の誕生日がある」と話していた。現在、この11月20日が大妻学院の学校記念日とされている。3歳で父を14歳で母を亡くす。
1901年、広島県立高等女学校(現広島皆実高校)卒業。当初、物理と数学を学ぶことを志したが、兄に「女は手芸裁縫を学ぶもの」と反対されたため、家出し上京。結局、叔父宅へ寄宿し和洋裁縫女学校(現和洋女子大学)に入学。卒業後、東京府の教員養成所(現東京学芸大学)、神奈川の女子師範学校(現横浜国立大学)などに学び卒業後、都下の学校で教鞭をとる。
1907年、宮内省御陵係・大妻良馬と結婚。大妻姓となる(旧姓は熊田)。軍人の家庭の仕立て物を縫わせてもらったのが切っ掛けで、好きな瓶細工や袋物の手芸などを近所の娘さんたちに手ほどきをした。
1908年、夫が山階宮家勤めとなり、宮家の中にある家に移る。この場所で大妻学院の前身となる縫製・手芸の家塾を開設。
当初近所の子供を集めた10数人の私塾だったが大妻の教授法は好評で、また女子教育普及の波に乗り生徒数が増加の一途をたどり1916年、大妻技芸伝習所、1917年、麹町に私立大妻技芸学校開校、1919年、高等女学校に発展。戦前の良妻賢母教育の代表といわれた。また五尺帯、半反でできる服やツーピースの着物、風呂敷を三角にした戦時袋などを考案して評判を呼ぶ。1927年から1932年にかけて和服のたち方縫い方、手芸などを分かりやすく図で説明した本を次々出版、30万部、50万部などと売上げ、当時としては驚異的なベストセラーとなった。
その後高等技芸科、高等家政科を増設。
夫が急性肺炎で亡くなり、子宝にも恵まれなかったこともあり、学校経営に情熱を注いだ。
1942年、大妻女子専門学校と改称。
戦時中に国粋主義的な婦人団体の幹部として活躍したり、戦意昂揚の講演などを行っていたとして戦後は教職追放令により学校を追われた。
1949年解除後校長に復帰、大学から中学まである大妻学院に女手一本で育て上げた。
1949年、大妻女子大学に昇格、家政学部に被服、食物、家庭理学の各科を設置。また校長、学長を歴任した。
以来、生涯にわたり女子教育に尽くした。教育方針は和裁を中心に良妻賢母の養成であった。家事評論家としても活躍、関連雑誌の評論他、文部省認定の「現代裁縫全書」、「模範裁縫教科書」、「新選裁縫教科書」など裁縫、手芸に関する多くの著書がある。その他自著「ごもくめし」(1962年)、「大妻コタカ」上田高昭著(1967年)、「近代日本の女性史 第9巻 大妻コタカ」安西篤子著(1981年)などの関連書籍がある。
1954年、藍綬褒章受章。
1964年、第1回生存者叙勲で女子教育者としては初めて勲三等宝冠章を受章した。
1970年、住み慣れた東京三番町で長逝、85歳。従四位勲二等瑞宝章受章。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/大妻コタカ
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