佐賀県東松浦郡久里村(現在の唐津市)出身。1910年旧制唐津中学校を卒業し、海軍兵学校第41期に入校。13年海軍兵学校を卒業してパイロットとなるが、26年訓練飛行中に搭乗機が墜落して右大腿骨・頭蓋骨・顔面を骨折し、3年近く療養生活をおくる。復帰後、29年に予科練設立委員長となり、翌年には初代部長となって教育にあたった。その後、鎮海空司令、横浜空司令、横須賀鎮守府付き、父島空司令、第13空司令を歴任。太平洋戦争が起こってからは、42年に第21航空戦隊司令官として南方戦線で指揮をとり、翌年には第13連合航空隊司令官として内地防空にあたった。44年第27航空戦隊司令官として硫黄島に赴任。45年、硫黄島の戦いで戦死した。市丸の戦死の状況は明確ではないが、当時のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトに宛てた手紙『ルーズベルトニ与フル書』を遺し、戦後有名になった。手紙はアナポリス博物館に保管されている。
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