海軍軍人。新潟県長岡市出身。1904年海軍兵学校卒業。翌年の日露戦争で日本海海戦に従軍し、重傷を負う。16年海軍大学校を卒業ののち、駐米大使館付武官、空母赤城艦長、海軍航空本部長などを歴任。米国の駐在歴が長く、ロンドン軍縮会議の随員も勤めていたことから、海外の事情にも通じていた。36年海軍次官になり米内光政海相を補佐し、陸軍の日独伊三国同盟締結路線に反対した。39年連合艦隊司令長官となり、作戦指導にあたる立場となる。対米開戦には批判的であったが、短期決戦を目論んで41年に真珠湾奇襲作戦を実行した。開戦後は対米戦を指導、常に先手を打つ積極策をとったが、42年のミッドウェー海戦で大敗。43年4月、南方前線を視察中にブーゲンビル島上空で米軍に撃墜され、戦死した。死後元帥を追贈され、国葬が行われた。
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