リチャード・ブランドン
数多くの灯台設置を手がけ、技師として勤務した7年6ヶ月の間に灯台26(犬吠埼灯台 など)、灯竿5(根室、石巻、青森、横浜西波止場2)、灯船2(横浜港、函館港)などを設計。そのため「日本の灯台の父」と讃えられている。
1868年(慶応4年)8月、明治政府からお雇い外国人に採用され、妻子及び助手2人を伴って来日。この時から1876年(明治9年)までの8年間の日本滞在中に、日本における灯台体系の基礎を築き上げる。また灯台技術者の育成のため「修技校」を設け、後継教育にも心血を注ぐ。
灯台の他にも、日本初の電信架設(1869年、東京・築地 - 横浜間)や、横浜居留地の日本大通などへの西洋式舗装技術の導入、日本最初の鉄道建設について意見書を提出するなど、多くの功績を草創期の近代日本にもたらす。
1876年3月、明治政府から任を解かれ帰国する。その後、建築家として建物の設計・建築に携わった。
晩年、仕事の合間に書きためた原稿「ある国家の目覚め―日本の国際社会加入についての叙述とその国民性についての個人的体験記」をまとめ終えると、程なく世を去った。