平賀源内は、讃岐国(現在の香川県)の白石家の三男として生まれた。13歳から藩医の元で、本草学、儒学を学び、俳諧も嗜んだ。
1752年頃、長崎で本草学とオランダ語、医学、油絵などを学び、留学の後に藩の仕事を辞めてしまう。その後、大坂、京都で勉強し、1756年には江戸に出て本草学、漢学を学んだ。
2回目の長崎遊学では、「鉱山の採掘」や「精錬の技術」を学び、そこで得た知識をもとに1761年に伊豆で鉱床を発見し、また、物産博覧会をたびたび開催していた。
1776年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元に成功。
死因は獄中での破傷風によるものである。1779年、大名屋敷の修理を任された際、あるとき酔っていたために、修理の計画書を盗まれたと勘違いして、大工の棟梁2人をあやめてしまう。そのため逮捕されてしまい、1ヵ月後、破傷風により牢獄の中で亡くなったのでした。
参考