増子女王
ますこじょおう
1711 - 1733
江戸幕府 征夷大将軍 将軍 徳川家重 正室
- 亡くなってから291年125日過ぎました。
- 22歳で亡くなりました。
- 1711年11月28日に誕生、1733年11月09日に亡くなりました。
- 生誕309年が経過しました。没後287年が経過しました。
- 暮らした時代は、正徳(5年257日)、享保(18年97日) です。
- 次の法要は8年243日後、2032年11月09日の三百回忌です 一覧
-
×
増子女王さんの主な法要の日を表示しています。
命日は11月09日です。
仏式の場合
-
初七日 - 1733年11月15日
四十九日 - 1733年12月27日
百か日 - 1734年02月16日
一周忌 - 1734年11月09日
三回忌 - 1735年11月09日
七回忌 - 1739年11月09日
十三回忌 - 1745年11月09日
十七回忌 - 1749年11月09日
二十三回忌 - 1755年11月09日
二十五回忌 - 1757年11月09日
二十七回忌 - 1759年11月09日
三十三回忌 - 1765年11月09日
五十回忌 - 1782年11月09日
百回忌 - 1832年11月09日
百五十回忌 - 1882年11月09日
二百回忌 - 1932年11月09日
三百回忌 - 2032年11月09日
神式の場合
-
十日祭 - 1733年11月18日
二十日祭 - 1733年11月28日
三十日祭 - 1733年12月08日
四十日祭 - 1733年12月18日
五十日祭 - 1733年12月28日
一年祭 - 1734年11月09日
三年祭 - 1736年11月09日
五年祭 - 1738年11月09日
十年祭 - 1743年11月09日
二十年祭 - 1753年11月09日
三十年祭 - 1763年11月09日
四十年祭 - 1773年11月09日
五十年祭 - 1783年11月09日
百年祭 - 1833年11月09日
百五十年祭 - 1883年11月09日
二百年祭 - 1933年11月09日
三百年祭 - 2033年11月09日
キリスト教式の場合
-
追悼ミサ(三日目) - 1733年11月11日
追悼ミサ(七日目) - 1733年11月15日
追悼ミサ(三十日目) - 1733年12月08日
死者記念のミサ(一年目) - 1734年11月09日
死者記念のミサ(十年目) - 1743年11月09日
死者記念のミサ(二十年目) - 1753年11月09日
死者記念のミサ(五十年目) - 1783年11月09日
死者記念のミサ(百年目) - 1833年11月09日
死者記念のミサ(二百年目) - 1933年11月09日
死者記念のミサ(三百年目) - 2033年11月09日
- 現在1人がこのページに訪れています。
-
1時間:0人 1日:0人 1週:0人 1カ月:10人 1年:151人
詳細
増子女王さんについて
旧皇族の一つである伏見宮家第十四代当主邦永親王の第四王女で、江戸時代中期の1711年(正徳元年)に比宮増子(なみのみや ますこ)として生まれる。※資料によっては「比宮培子」と表記するものもある。
院号は證明院(しょうみょういん)で、紀州藩主時代の徳川家八代将軍吉宗の御簾中(正室)であった理子女王(まさこじょおう)は叔母にあたる。
1731年(享保16年)、20歳(満21歳)の時に徳川家九代将軍家重と結婚し、御簾中となる。江戸城西の丸に住んでいたことから、西の丸御簾中と呼ばれていた。1733年(享保18年)に懐妊するも、9月に早産となって子供は亡くなり、自身も産後に体調を崩し、旧暦の10月3日に22歳(満23歳)で亡くなった。
戒名は【證明院智岸真恵大姉】
墓所は寛永寺にあるが、本能寺を信仰していたことから、遺髪と爪が本能寺に送られ、本能寺の変戦没者合祀の北にある供養塔に納められている。
ご支援をお願いいたしますm(_ _)m
Amazon ←のリンク、↑のバナー、又はお供えリンク経由で商品をご購入いただくとこのサイトに紹介料が支払われる仕組みになっています。ご購入者様のお支払い額は増えません(Amazonが紹介料を負担)ご支援いただけますと幸いです。
詳細はこちら