康熙帝
こうきてい
1654 - 1722
中国・清の第4代皇帝
- 亡くなってから301年100日過ぎました。
- 68歳で亡くなりました。
- 1654年05月04日に誕生、1722年12月20日に亡くなりました。
- 生誕366年が経過しました。没後298年が経過しました。
暮らした時代は、承応 から 享保 です。一覧
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康熙帝さんの暮らした時代を表示しています。
承応(2年15日)
明暦(4年97日)
万治(3年277日)
寛文(13年164日)
延宝(9年13日)
天和(3年149日)
貞享(5年203日)
元禄(16年179日)
宝永(8年58日)
正徳(6年62日)
享保(7年135日)
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康熙帝さんの主な法要の日を表示しています。
命日は12月20日です。
仏式の場合
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初七日 - 1722年12月26日
四十九日 - 1723年02月06日
百か日 - 1723年03月29日
一周忌 - 1723年12月20日
三回忌 - 1724年12月20日
七回忌 - 1728年12月20日
十三回忌 - 1734年12月20日
十七回忌 - 1738年12月20日
二十三回忌 - 1744年12月20日
二十五回忌 - 1746年12月20日
二十七回忌 - 1748年12月20日
三十三回忌 - 1754年12月20日
五十回忌 - 1771年12月20日
百回忌 - 1821年12月20日
百五十回忌 - 1871年12月20日
二百回忌 - 1921年12月20日
三百回忌 - 2021年12月20日
神式の場合
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十日祭 - 1722年12月29日
二十日祭 - 1723年01月08日
三十日祭 - 1723年01月18日
四十日祭 - 1723年01月28日
五十日祭 - 1723年02月07日
一年祭 - 1723年12月20日
三年祭 - 1725年12月20日
五年祭 - 1727年12月20日
十年祭 - 1732年12月20日
二十年祭 - 1742年12月20日
三十年祭 - 1752年12月20日
四十年祭 - 1762年12月20日
五十年祭 - 1772年12月20日
百年祭 - 1822年12月20日
百五十年祭 - 1872年12月20日
二百年祭 - 1922年12月20日
三百年祭 - 2022年12月20日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1722年12月22日
追悼ミサ(七日目) - 1722年12月26日
追悼ミサ(三十日目) - 1723年01月18日
死者記念のミサ(一年目) - 1723年12月20日
死者記念のミサ(十年目) - 1732年12月20日
死者記念のミサ(二十年目) - 1742年12月20日
死者記念のミサ(五十年目) - 1772年12月20日
死者記念のミサ(百年目) - 1822年12月20日
死者記念のミサ(二百年目) - 1922年12月20日
死者記念のミサ(三百年目) - 2022年12月20日
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1時間:0人 1日:0人 1週:0人 1カ月:12人 1年:118人
詳細
康熙帝さんについて
中国・清の第4代皇帝(在位1661~1722)。諱(いみな)は玄燁(げんよう)、諡(おくりな)は仁皇帝。廟号は聖祖。順治帝の第3子、母は孝康章皇后。
8歳で即位したのち、スクサハ、ソニン、エビルン、オボイの重臣4人による合議で政権運営が行われていたが、1669年オボイを捕らえて親政を始めた。1673年、当時戦功を認められて独立政権と化していた所謂三藩(呉三桂、尚可喜、耿精忠)を廃止、呉三桂らが三藩の乱を起こすが、1681年までかかって鎮圧。その2年後に台湾の鄭氏一族も制圧し、反抗勢力を剿滅した。また、ジュンガルやチベットの内紛に介入して支配地域を拡大。さらに南下してきたロシア帝国と戦ってこれを破り、1689年にネルチンスク条約を結んで国境を確定した。
制度の整備、学問の振興に努め、『康熙字典』『淵鑑類函(えんかんるいかん)』などを編集させる。文字の獄(一種の言論弾圧)で排満思想を抑圧、キリスト教の弾圧も行った。
晩年には後継者を巡って内紛が起こり、第2子の胤礽(いんじょう)を廃太子としている。
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