理子女王(まさこじょおう、元禄4年8月18日(1691年9月10日) - 宝永7年6月4日(1710年6月30日))は、江戸時代中期の女性。後に江戸幕府第8代将軍となった徳川吉宗が紀州藩第5代藩主だった頃の御簾中(正室)。伏見宮貞致親王の王女。
紀州藩第2代藩主・徳川光貞の御簾中・照子女王は伯母、第4代将軍・徳川家綱の御台所・顕子女王は叔母、第9代将軍・徳川家重の将軍世子時代の御簾中・増子女王は姪に当たる。幼称は真宮(さなのみや)。院号は寛徳院(かんとくいん)。
宝永3年(1706年)、吉宗と婚姻。その後、懐妊したが宝永7年(1710年)5月27日に死産となり[1]、産後の肥立ちが悪く、同年6月4日に死去。戒名は寛徳院玄真日中大姉。墓所は報恩寺と池上本門寺にある。吉宗はこの後二度と正室を迎える事はなかった。
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