五条庸子
ごじょう ようこ
1660 - 1683
五条為庸の娘 霊元天皇の女官
- 亡くなってから341年86日過ぎました。
- 23歳で亡くなりました。
- 1660年05月27日に誕生、1683年09月25日に亡くなりました。
- 生誕360年が経過しました。没後337年が経過しました。
暮らした時代は、万治 から 天和 です。一覧
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五条庸子さんの暮らした時代を表示しています。
万治(362日)
寛文(13年164日)
延宝(9年13日)
天和(2年321日)
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五条庸子さんの主な法要の日を表示しています。
命日は09月25日です。
仏式の場合
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初七日 - 1683年10月01日
四十九日 - 1683年11月12日
百か日 - 1684年01月02日
一周忌 - 1684年09月25日
三回忌 - 1685年09月25日
七回忌 - 1689年09月25日
十三回忌 - 1695年09月25日
十七回忌 - 1699年09月25日
二十三回忌 - 1705年09月25日
二十五回忌 - 1707年09月25日
二十七回忌 - 1709年09月25日
三十三回忌 - 1715年09月25日
五十回忌 - 1732年09月25日
百回忌 - 1782年09月25日
百五十回忌 - 1832年09月25日
二百回忌 - 1882年09月25日
三百回忌 - 1982年09月25日
神式の場合
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十日祭 - 1683年10月04日
二十日祭 - 1683年10月14日
三十日祭 - 1683年10月24日
四十日祭 - 1683年11月03日
五十日祭 - 1683年11月13日
一年祭 - 1684年09月25日
三年祭 - 1686年09月25日
五年祭 - 1688年09月25日
十年祭 - 1693年09月25日
二十年祭 - 1703年09月25日
三十年祭 - 1713年09月25日
四十年祭 - 1723年09月25日
五十年祭 - 1733年09月25日
百年祭 - 1783年09月25日
百五十年祭 - 1833年09月25日
二百年祭 - 1883年09月25日
三百年祭 - 1983年09月25日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1683年09月27日
追悼ミサ(七日目) - 1683年10月01日
追悼ミサ(三十日目) - 1683年10月24日
死者記念のミサ(一年目) - 1684年09月25日
死者記念のミサ(十年目) - 1693年09月25日
死者記念のミサ(二十年目) - 1703年09月25日
死者記念のミサ(五十年目) - 1733年09月25日
死者記念のミサ(百年目) - 1783年09月25日
死者記念のミサ(二百年目) - 1883年09月25日
死者記念のミサ(三百年目) - 1983年09月25日
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詳細
五条庸子さんについて
天皇に仕える公家の一つであった五条中納言家の正二位権大納言五条為庸(ごじょう ためのぶ)の娘として、右衛門尉であった南部宣行の娘との間に生まれる。※五条中納言家は菅原氏(すがわらうじ)を祖先としているため、資料によっては本来の菅原姓を用いて「菅原庸子」と記されている。
第112代天皇である高貴宮識仁(あてのみや さとひと 以下・霊元天皇)の女官として仕え、新内侍→菅内侍→菅内侍局を経て少将内侍となった。別名「菅中納言局」とも呼ばれる。庸子とともに霊元天皇の女官となり「中納言典侍」と呼ばれた五条経子は妹。霊元天皇の寵愛を受けて三人の皇子を出産しており、後に出家して天台座主・尭延入道親王(ぎょうえんにゅうどうしんのう)となった周慶親王(ちかよししんのう)は霊元天皇と庸子との間に生まれた第五皇子。他の二人の皇子は若くして亡くなっている。1683年(天和3年)に23歳(満24歳)で死去。
本能寺境内の信長公廟の近くに墓所があり、『菅中納言局庸子の石塔』と説明されている。戒名は石塔に【清光院殿浄心信敬尊儀】と刻まれているが、正しくは【宝樹院浄心】である。
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