徳川頼宣
とくがわ よりのぶ
1602 - 1671
徳川家康の十男 紀州徳川家初代
- 亡くなってから353年299日過ぎました。
- 68歳で亡くなりました。
- 1602年04月28日に誕生、1671年02月19日に亡くなりました。
- 生誕418年が経過しました。没後349年が経過しました。
暮らした時代は、慶長 から 寛文 です。一覧
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徳川頼宣さんの暮らした時代を表示しています。
慶長(14年134日)
元和(9年228日)
寛永(21年277日)
正保(4年86日)
慶安(5年198日)
承応(3年211日)
明暦(4年97日)
万治(3年277日)
寛文(10年275日)
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徳川頼宣さんの主な法要の日を表示しています。
命日は02月19日です。
仏式の場合
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初七日 - 1671年02月25日
四十九日 - 1671年04月08日
百か日 - 1671年05月29日
一周忌 - 1672年02月19日
三回忌 - 1673年02月19日
七回忌 - 1677年02月19日
十三回忌 - 1683年02月19日
十七回忌 - 1687年02月19日
二十三回忌 - 1693年02月19日
二十五回忌 - 1695年02月19日
二十七回忌 - 1697年02月19日
三十三回忌 - 1703年02月19日
五十回忌 - 1720年02月19日
百回忌 - 1770年02月19日
百五十回忌 - 1820年02月19日
二百回忌 - 1870年02月19日
三百回忌 - 1970年02月19日
神式の場合
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十日祭 - 1671年02月28日
二十日祭 - 1671年03月10日
三十日祭 - 1671年03月20日
四十日祭 - 1671年03月30日
五十日祭 - 1671年04月09日
一年祭 - 1672年02月19日
三年祭 - 1674年02月19日
五年祭 - 1676年02月19日
十年祭 - 1681年02月19日
二十年祭 - 1691年02月19日
三十年祭 - 1701年02月19日
四十年祭 - 1711年02月19日
五十年祭 - 1721年02月19日
百年祭 - 1771年02月19日
百五十年祭 - 1821年02月19日
二百年祭 - 1871年02月19日
三百年祭 - 1971年02月19日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1671年02月21日
追悼ミサ(七日目) - 1671年02月25日
追悼ミサ(三十日目) - 1671年03月20日
死者記念のミサ(一年目) - 1672年02月19日
死者記念のミサ(十年目) - 1681年02月19日
死者記念のミサ(二十年目) - 1691年02月19日
死者記念のミサ(五十年目) - 1721年02月19日
死者記念のミサ(百年目) - 1771年02月19日
死者記念のミサ(二百年目) - 1871年02月19日
死者記念のミサ(三百年目) - 1971年02月19日
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詳細
徳川頼宣さんについて
徳川御三家、正二位大納言。
駿府城主、転じて和歌山城主。
上方および西国への抑えとして、紀伊五十五万石の藩祖となった大大名。幼少から大器の片鱗があり、幕府が謀反を警戒、「南海の龍」の異名で畏怖された傑物。一方で、若年将軍家綱を徳川最長老として陰から支え、全国の武士からは神君の子「大君」と仰がれ尊敬も集めていた。
国元では城下町整備を進め、産業の育成、文武の奨励、法と道徳の普及、自然環境の保護など、精力的に国作りの基礎を固めた。領内に広めた「父母状」は特に有名。
豪快な鯨漁や天狗退治で地元の民話になったり、上方落語では妖怪退治する殿様として名を残している。
孫が八代将軍の徳川吉宗。その後の宗家、御三卿は頼宣の系統。
院号は南龍院、墓所は長保寺紀州徳川家廟所。中央の無縫塔こそ、彼の墓石である。
http://www.chohoji.or.jp/tokugawa/toku3.htm
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