まいり
サイト継続の為ご支援お願いします m(_ _)m 詳細
[ 2023.04.02 ] ログイン機能APPLEを追加しました。
使い方・仕様 | ログインページ

小笠原忠真

おがさわら ただざね
1596 - 1667
大名 小笠原秀政の次男
小笠原忠真さんについて
甲斐武田氏と同じ源氏の流れをくむ信濃小笠原氏を起源とする一族で、松本城の三代目城主(※)である小笠原秀政と、徳川家康の嫡男であった信康の長女・登久姫の次男として生まれる。秀政の嫡男である忠脩(ただなが)は兄にあたる。幼名は春松丸といい、徳川家二代将軍秀忠より一字をたまわって忠政(ただまさ)となった。忠真(ただざね)は晩年になってからの名である。慶長20年の大坂夏の陣で、父の秀政が徳川方の武将として大坂へ向かうこととなり、忠脩とともに松本城の留守を任されたが、父親の後を追って兄とともに大阪へ出陣。父と兄が戦死したことから、家康の命で松本城四代目城主となり、戦死した兄・忠脩の正室であった円照院を正室として迎え、兄の長男(後の小笠原長次)の養父となった。その後、明石城を中心とする播磨国明石藩(現在の明石市および神戸市辺り)へ移り、長次が明石藩主となってからは小倉城を中心とする豊前国小倉藩(現在の福岡県北九州市)の藩主となり、小笠原氏は小倉藩を中心に幕末まで存続した。
大坂夏の陣において、兄とともに父の命令を無視するかたちで出陣する途中、橋の上で、母あるいは乳母が出陣を止めさせるために羽織の袖をつかんで離さなかったことから、やむなく袖を切り落として大阪へ向かっていったという逸話が残されている。この逸話は松本城にまつわる伝説の一つとして語り継がれており、舞台となった場所は『袖留橋(そでとめばし)』と呼ばれるようになった(現在の「緑橋」)。
※松本城の初代城主である石川数正から数えて三代目という意味で、信濃松本藩の歴代藩主とした場合に表記ゆれが多いため。
2018.09.19 ID:257345
信濃松本8万石⇒播磨三木明石10万石⇒1632年、豊前小倉15万石。
「小倉織」は、小笠原氏が、松本からもたらした?小倉移転後に、付いて来た藩士が考案した等、起源には色々な説が?
 ID:16287
お悔やみ申し上げます
ご支援をお願いいたしますm(_ _)m
Amazon ←のリンク、↑のバナー、又はお供えリンク経由で商品をご購入いただくとこのサイトに紹介料が支払われる仕組みになっています。ご購入者様のお支払い額は増えません(Amazonが紹介料を負担)ご支援いただけますと幸いです。
詳細はこちら
ログインするとサービスがご利用いただけます。
ログインページ