宮城豊嗣
みやぎ とよつぐ
1605 - 1643
清富藩藩主・大名
- 亡くなってから381年299日過ぎました。
- 38歳で亡くなりました。
- 1605年に誕生、1643年01月23日に亡くなりました。
- 生誕415年が経過しました。没後377年が経過しました。
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宮城豊嗣さんの主な法要の日を表示しています。
命日は01月23日です。
仏式の場合
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初七日 - 1643年01月29日
四十九日 - 1643年03月12日
百か日 - 1643年05月02日
一周忌 - 1644年01月23日
三回忌 - 1645年01月23日
七回忌 - 1649年01月23日
十三回忌 - 1655年01月23日
十七回忌 - 1659年01月23日
二十三回忌 - 1665年01月23日
二十五回忌 - 1667年01月23日
二十七回忌 - 1669年01月23日
三十三回忌 - 1675年01月23日
五十回忌 - 1692年01月23日
百回忌 - 1742年01月23日
百五十回忌 - 1792年01月23日
二百回忌 - 1842年01月23日
三百回忌 - 1942年01月23日
神式の場合
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十日祭 - 1643年02月01日
二十日祭 - 1643年02月11日
三十日祭 - 1643年02月21日
四十日祭 - 1643年03月03日
五十日祭 - 1643年03月13日
一年祭 - 1644年01月23日
三年祭 - 1646年01月23日
五年祭 - 1648年01月23日
十年祭 - 1653年01月23日
二十年祭 - 1663年01月23日
三十年祭 - 1673年01月23日
四十年祭 - 1683年01月23日
五十年祭 - 1693年01月23日
百年祭 - 1743年01月23日
百五十年祭 - 1793年01月23日
二百年祭 - 1843年01月23日
三百年祭 - 1943年01月23日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1643年01月25日
追悼ミサ(七日目) - 1643年01月29日
追悼ミサ(三十日目) - 1643年02月21日
死者記念のミサ(一年目) - 1644年01月23日
死者記念のミサ(十年目) - 1653年01月23日
死者記念のミサ(二十年目) - 1663年01月23日
死者記念のミサ(五十年目) - 1693年01月23日
死者記念のミサ(百年目) - 1743年01月23日
死者記念のミサ(二百年目) - 1843年01月23日
死者記念のミサ(三百年目) - 1943年01月23日
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詳細
宮城豊嗣さんについて
官位 従五位下 主膳正
通称 十二郎
慶長10年(1605年)伏見城の宮城家屋敷で出生
父は山崎片家の息で、宮城豊盛の女婿かつ養嗣子の宮城頼久
母は宮城豊盛息女
慶長14年(1609年)3月9日父頼久逝去により家督相続の約を家康から受けるも、幼少につき祖父豊盛が後見役として再家督。
慶長18年(1613年)6月1日
駿府で家康に嫡子拝謁を賜り、翌年正月、江戸で秀忠にも拝謁す。
尾張義直生母お亀方の推挙により駿府にて家康に出仕す。
元和2年(1616年)
家康の容体悪化を秀忠が見舞った時、12歳で将軍に供奉する。
家康薨去により江戸に移住、芝に屋敷を拝領。
元和3年(1617年)将軍秀忠上洛に供奉。
元和6年(1620年)5月29日
祖父豊盛逝去に伴い家督相続。知恩院普請奉行も引継ぐ。
元和7年(1621年)3月9日
慈照寺にて父頼久の13回忌を行う。
元和8年(1622年)頃、従五位下 主膳正に叙任される。
元和9年(1623)4月
金地院崇伝に大燈国師の墨蹟を送る。
9月5日頃
大津を経て上洛する。
寛永2年(1625年)3月9日父頼久17回忌を慈照寺にて行う。
11月~12月頃
金地院崇伝の周旋で後の駿府城代松平(久松)勝政の息女と婚姻。
寛永4年(1627年)
美濃・備中所領の但馬国への知行替えが認められ、
但馬国二方郡と気多郡で計13000石余を領し大名に列して
宮城清富領の初代藩主となる。
領内の岸田川を付け替えて田地を増やすことで小作民の自立を促し
清富城下館跡に陣屋を置いてその門前を碁盤の目状にすることで城下町としての街立てをして中世的農村から脱却、近世的街作りを行なった。
楞巌寺の古文書が散逸していたのを憂え、買い戻して寄進するなど
文化財保護にも力を入れた。
寛永8年(1631)清富領柤岡村で金山発見さる。
12月 豊嗣母子で金地院崇伝に浴衣や足袋、棗など新年準備?の資具を送る。
寛永9年(1632)将軍秀忠薨去。遺金として銀200枚賜る。
寛永11年(1634年)3月 七美郡大照山にて村岡藩と争論。
6月 将軍家光上洛につき供奉。
寛永13年(1636年)1月
江戸城外郭工事の夫役を命ぜらる。
11月
江戸邸にて江戸下向中の鹿苑寺承章や金地院元良を饗応す。
寛永14年(1637年)6月1日 清富領帰国に向け江戸出発。
寛永15年(1638年)12月20日 大津屋敷に滞在。
寛永16年(1639)3月9日
父頼久33回忌の追善に合わせて慈照寺の修築完了。
特に観音殿を現在の形に修補し、庇裏に月明かりなどの光を
受けて建物が白く浮かび上がる工夫を施し、これが「銀閣」
の呼称の元となった。
総門から庭園のアプローチを迂回させて、銀閣寺垣と呼ばれる
独特の垣根と生垣で視界を遮断し、遠近感を強調する
ヴィスタの手法を取り入れるなど、今に残る慈照寺庭園は
この時までに成ったと言われている。
寛永18年(1641年)10月8日
寛永系図原稿を太田備中守屋敷へ 家臣の畑作右衛門に持参させる。
寛永19年(1642年) 江戸城土橋門勤番を仰せ付けられる。
5月 寛永大飢饉の被害拡大を憂えた将軍家光から諸大名に江戸参勤を免じる旨発せられる。
寛永20年(1643年)飢饉対処の最中、1月7日 清富領面沼神社の祭礼の後に倒れ、同23日 卒去。享年39歳
法名 秀林院殿梅叔宗眞大禪定門
(別伝に浄光院宗誉孤雲とあるは別人)
豊嗣の嫡男源太郎は早世のため無嗣となり、
清富領は廃絶され幕府に収公、宮城家唯一の大名の豊盛流宮城家は断絶した。
但し豊盛家の血流は豊嗣の甥で伊予松山藩士の
大西兄弟が継承しており、次男の佐五兵衛正之は
伊予松山藩主松平定直の許しを得て
元禄10年、宮城に改姓して再興。
松山宮城家と江戸宮城家に分かれて幕末に至る。
正室の松平勝政息女は、江戸屋敷から実家の当主
松平勝義屋敷に引き取られ落飾、天桂院と号し
後の多古藩邸で余世を江戸で過ごした。
一方、江戸屋敷や蔵屋敷の始末を任された豊嗣姉婿の
宮城市左衛門が家財や菩提寺等の宮城家名跡を引継ぐ。
洛中にいて御家再興の働きかけをしたものの、
大名宮城家の相続はついに認められなかった。
後には尾張藩京屋敷に席を与えられ、武家宮城家として存続、
その後は嗣子宮城久次郎に後嗣が恵まれず、尾張茶屋家の山田氏から養子を迎え
宮城の家名を幕末まで伝えた。
遺骸は近江国栗太郡金勝谷橋本村の阿弥陀寺に葬られ、
また金戒光明寺妙蓮院(のち永運院)にも供養塔が建立された。
庇護を感謝した清富領内の泉寿院は秀林院殿の位牌を祀り
報恩供養を続けたという。(現在位牌は行方不明)
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