宮城豊盛
みやぎ とよもり
1554 - 1620
室町末~江戸時代初期の武将
- 亡くなってから404年204日過ぎました。
- 66歳で亡くなりました。
- 1554年に誕生、1620年05月29日に亡くなりました。
- 生誕466年が経過しました。没後400年が経過しました。
暮らした時代は、天文 から 元和 です。一覧
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宮城豊盛さんの暮らした時代を表示しています。
天文(2年311日)
弘治(3年133日)
永禄(13年74日)
元亀(4年92日)
天正(20年144日)
文禄(4年342日)
慶長(19年268日)
元和(5年269日)
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宮城豊盛さんの主な法要の日を表示しています。
命日は05月29日です。
仏式の場合
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初七日 - 1620年06月04日
四十九日 - 1620年07月16日
百か日 - 1620年09月05日
一周忌 - 1621年05月29日
三回忌 - 1622年05月29日
七回忌 - 1626年05月29日
十三回忌 - 1632年05月29日
十七回忌 - 1636年05月29日
二十三回忌 - 1642年05月29日
二十五回忌 - 1644年05月29日
二十七回忌 - 1646年05月29日
三十三回忌 - 1652年05月29日
五十回忌 - 1669年05月29日
百回忌 - 1719年05月29日
百五十回忌 - 1769年05月29日
二百回忌 - 1819年05月29日
三百回忌 - 1919年05月29日
神式の場合
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十日祭 - 1620年06月07日
二十日祭 - 1620年06月17日
三十日祭 - 1620年06月27日
四十日祭 - 1620年07月07日
五十日祭 - 1620年07月17日
一年祭 - 1621年05月29日
三年祭 - 1623年05月29日
五年祭 - 1625年05月29日
十年祭 - 1630年05月29日
二十年祭 - 1640年05月29日
三十年祭 - 1650年05月29日
四十年祭 - 1660年05月29日
五十年祭 - 1670年05月29日
百年祭 - 1720年05月29日
百五十年祭 - 1770年05月29日
二百年祭 - 1820年05月29日
三百年祭 - 1920年05月29日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 1620年05月31日
追悼ミサ(七日目) - 1620年06月04日
追悼ミサ(三十日目) - 1620年06月27日
死者記念のミサ(一年目) - 1621年05月29日
死者記念のミサ(十年目) - 1630年05月29日
死者記念のミサ(二十年目) - 1640年05月29日
死者記念のミサ(五十年目) - 1670年05月29日
死者記念のミサ(百年目) - 1720年05月29日
死者記念のミサ(二百年目) - 1820年05月29日
死者記念のミサ(三百年目) - 1920年05月29日
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詳細
宮城豊盛さんについて
従五位下 丹波守
日隈城主(豊後)、芥川城主(摂津)
芦屋城主(但馬)
通称 長次郎
略称 長次 宮長 宮丹
別諱 定勝(慶長元年豊臣定勝を賜名)
正元(元和二年まで使用か)
法名 大通院殿前丹州太守蓮譽宗光大禪定門
天文23年(1554)近江国に生まれる。
宮木(宮城)姓は六角氏重臣の宮木堅甫の末娘の
婿養子に迎えられて改姓。
実父は山崎信家とも青地某とも伝わる。
実母(清涼院)は宮木真観入道の娘であるので
真観入道の嫡男宮木重甫の兄弟姉妹となり、よって
堅甫と豊盛は、従兄弟同士ということになる。
養父堅甫が山崎片家らと主家六角氏を見限って信長に
降って以降、秀吉に使えるようになった頃に
豊盛も秀吉に見出され、祐筆として仕える。
天正6年(1578)三木合戦で首級を挙げ秀吉より鑓を賜る。
天正11年(1583)蒲生氏郷と池田恒興の喧嘩仲裁を秀吉に依頼される。
天正13年(1585)四国征伐の兵粮奉行。
天正14年(1586)暮に大坂出立。九州征伐の兵粮奉行。
天正17年(1589)養父堅甫没につき、宮城一族の惣領となる。
天正18年(1590)小田原陣では被弾しながらの先陣の功。
天正19年(1591)文禄の役の先遣隊として片桐且元と共に進軍渡海の整備を行う。
その後は対馬に在陣し、寺沢広高と連繋して兵站を支える。
文禄2年(1593)5月大友義統除封につき、豊後国に五千石を賜る。
文禄3年(1594)豊後日田玖珠両郡2(4)万石統治を委任される。
代官として森与右衛門尉・奥野与六郎らを遣わす。
慶長元年(1596)5月11日従五位下諸大夫に叙され豊臣朝臣定勝を賜名。
慶長3年(1598)大坂城作事奉行に任ぜられ大坂城の修繕にあたる。
8月18日秀吉死去。朝鮮撤兵の軍目付に指名され、
10月1日釜山上陸。
10月8日、泗川倭城を訪れて秀吉の死と撤退命令を伝え、停戦交渉を加藤清正・小西行長のどちらに託すか言い分を聴取。
10月13日、交渉を小西に託すこととし、島津義弘・寺沢広高らと明との講和交渉を行う。
11月2日、筑前名島に帰着。
家康より慰労され錦衣羽織を賜る。
また12月に前田利家邸で形見分けされた秀吉遺物の脇差を受け取る。
慶長4年(1599)朝鮮役の恩賞として丹波守に任官、摂津芥川に五千石拝領す。大坂城で城米奉行を務める。
慶長5年(1600)関ヶ原の陣の前に山崎家盛と連署で
石田三成の動向を家康に通知、功を賞される。
本戦では大坂方に留まり、諸侯の妻子逃亡を防ぐため平野町橋の守備についた。
戦後処理で責任を取り、養嗣子頼久に家督を譲る。
そのため、三成方動向通知の功により安堵された摂津・豊後の所領の内、豊後領は頼久に移譲、自身には摂津(五)千石余を残し摂津芥川城に居す。
慶長10年(1605)頼久、実兄の山崎家盛より但馬二方郡に6000石余を分知され、万石大名となり諸侯に列す。
豊盛は、亡き太閤追善のため秀頼の願によって行われていた金戒光明寺普請奉行を務め上げる。(現存の阿弥陀堂など)。同時に山内にあった大通寺を再興し、亡母供養のために妙蓮院と改め菩提所とした。(現永運院)
慶長14年(1609) 嗣子頼久に先立たれ、そのため頼久嫡男の十二郎(豊嗣)を補佐するため、摂津芥川の所領を甥の宮城和甫に譲り、頼久領一万石を再相続して11月に駿府へ移住。
家康に近侍し、安西衆に加わる。
慶長16年(1611) 備中小田郡に1530石拝領。溜池造成など民政に意を注いだ。代官として奥村又左衛門を置く。在地家臣に「小田物語」で知られる在田軒道貞(吉岡信元)とその父がいる。
慶長19年(1614)大坂冬の陣に徳川方として参戦。11月24日、備前島(大阪市都島区)の戦いで顔に銃弾を受けながら奮戦し、将軍秀忠より朝比奈正重を見舞いの使者として送られ薬を賜る。
慶長20年(1615)5月7日 大坂夏の陣で岡山口に布陣する将軍秀忠本隊の先鋒軍の一隊として玉造口に布陣。先鋒軍大将は前田利常。後詰に黒田長政、加藤嘉明。
6月17日 荒廃していた東山慈照寺再建。方丈を建築し、東求堂や観音殿を修築して寺院としての体裁を整える一方で、庭園は義政時代より大胆に改変。現在の慈照寺庭園の原型を造成した。
元和元年(1615)大坂の陣の恩賞として約2700石を美濃安八郡など三郡に拝領する。
元和2年(1616) 家康死去。秀忠の招きで江戸へ転住。立花宗茂らもいる将軍談判衆の一人として秀忠に仕える。
元和3年(1617) 但馬二方郡領内の湯村に涌く温泉に目を付け、湯治場として振興を促す。これが後に湯村温泉として発展していく元となった。
元和5年9月16日 知恩院普請奉行に任じられ、三門・経蔵の修築を担当する。
これら寺院普請は信仰心とも相まってか、
得度して官途名の丹波守から
丹波入道とも呼ばれた。
元和6年5月20日 鹿苑院主の昕叔顕晫より餅を送られる。
知恩院の普請奉行在任中の元和6年5月29日(1620年6月29日)
京屋敷において没す。享年67歳。
大通院の院号が知恩院初代門跡良純法親王から追贈された。
豊後日田の秀吉代官として領主であった時には
長良川の鵜匠を連れてきて、三隈川に鵜飼の漁法を広め、
雅な川遊びとして今に続いていると伝えられている。
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