潘璋
はん しょう
- 234
中国・後漢~三国時代の武将
- 234年に亡くなりました
- 没後1786年が経過しました。
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潘璋さんの主な法要の日を表示しています。
命日は01月01日です。
仏式の場合
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初七日 - 0234年01月07日
四十九日 - 0234年02月18日
百か日 - 0234年04月10日
一周忌 - 235年01月01日
三回忌 - 236年01月01日
七回忌 - 240年01月01日
十三回忌 - 246年01月01日
十七回忌 - 250年01月01日
二十三回忌 - 256年01月01日
二十五回忌 - 258年01月01日
二十七回忌 - 260年01月01日
三十三回忌 - 266年01月01日
五十回忌 - 283年01月01日
百回忌 - 333年01月01日
百五十回忌 - 383年01月01日
二百回忌 - 433年01月01日
三百回忌 - 533年01月01日
神式の場合
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十日祭 - 0234年01月10日
二十日祭 - 0234年01月20日
三十日祭 - 0234年01月30日
四十日祭 - 0234年02月09日
五十日祭 - 0234年02月19日
一年祭 - 235年01月01日
三年祭 - 237年01月01日
五年祭 - 239年01月01日
十年祭 - 244年01月01日
二十年祭 - 254年01月01日
三十年祭 - 264年01月01日
四十年祭 - 274年01月01日
五十年祭 - 284年01月01日
百年祭 - 334年01月01日
百五十年祭 - 384年01月01日
二百年祭 - 434年01月01日
三百年祭 - 534年01月01日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 0234年01月03日
追悼ミサ(七日目) - 0234年01月07日
追悼ミサ(三十日目) - 0234年01月30日
死者記念のミサ(一年目) - 235年01月01日
死者記念のミサ(十年目) - 244年01月01日
死者記念のミサ(二十年目) - 254年01月01日
死者記念のミサ(五十年目) - 284年01月01日
死者記念のミサ(百年目) - 334年01月01日
死者記念のミサ(二百年目) - 434年01月01日
死者記念のミサ(三百年目) - 534年01月01日
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詳細
潘璋さんについて
中国・後漢~三国時代の呉の武将。字は文珪。兗州東郡発干県の人。
15歳の孫権が陽羨県長だったときに、目通りを求め仕えた。潘璋は気ままな性格で酒を好み、若い頃は貧しかったが、平気でつけで酒を飲み、出世払いで返すと大言壮語していた。孫権にその性格を愛され、募兵の任務を担当し、集まった兵達の部将にそのまま採り立てられた。後に山越征伐で功績を挙げ、別部司馬となった。
呉の中央市場の取締り役を任されたときは、市場で盗難や殺人がなくなった。これにより評判を高め、豫章郡の西安県長となった。当時、荊州の劉表配下の者達が幾度か略奪を働いていたが、潘璋の着任後は侵攻が止み静まり返った。また、隣の建昌で反乱が起きると、任地を建昌に移され、武猛校尉を加えられた。1ヶ月で反乱を鎮圧し、散逸した民を集め、兵士を8百人ほど増やし建業に帰還した。
215年、孫権は劉備に荊州返還を求めるが劉備は応じず、呂蒙等と共に荊南三郡を取り、呂蒙は三郡を孫河に任せてその日のうちに益陽に向かっている。
合肥の戦いでは曹操軍の張遼が急襲する前に先遣部隊の陳武が戦死し、宋謙や徐盛の軍も敗れ兵士が逃げ出そうとする。この余りに不意打な攻撃に、孫権軍の先遣部隊はすっかり意気消沈し、潘璋は後方から馬を駆って前線に赴き、逃亡する宋謙軍や徐盛軍の兵士を二名ほど斬ったので逃亡していた兵は取って返してこれと戦ったが、先遣部隊の崩壊を防いだ。潘璋は陳武・徐盛・宋謙らの軍勢を引き連れ、張遼を食い止めた。これを見た孫権は潘璋の現場判断力を見て高く評価、この功績が孫権に認められ偏将軍となり、百校の任務を任され、半州に駐屯した。
219年の関羽討伐では、朱然とともに関羽の退路を断つ任務を受け、臨沮へ赴き夾石へ軍を進めた。部下の馬忠が関羽・関平・趙累を生け捕りにする功績を挙げたため、宜都郡より巫・秭帰の2県を分割して新設された固陵太守を任され、さらに振威将軍・溧陽侯となった。
甘寧が死去すると、その軍の指揮も任された。222年、夷陵の戦いにも参戦し陸遜と協力して蜀漢の劉備を破った。部下が蜀の大督をしていた馮習を討ち取るという大功を立て、その他敵将や兵士の多くを殺傷したため、平北将軍・襄陽太守となった。
同年、魏の曹真・夏侯尚・張郃らが南郡に攻め入り、援軍に赴いた孫盛が張郃に撃退された。夏侯尚は先鋒隊のうちの3万人を率いて、浮き橋を作って長江の中州に渡り、そこに陣営を設け軍勢を駐屯させた。諸葛瑾・楊粲が手勢を合わせて救援に駆けつけたが、なすすべを知らなかった。魏の兵士は毎日、続々と中洲へと渡った。潘璋は「魏の軍勢は始め盛んで、江水もまだ浅く、まだ戦うべきではありませぬ」と言い、軍力を温存し、魏軍の攻勢を避けていた。ただちに手勢を率いて魏軍より五十里ほど上流へ行き、数百万束の葦を刈って大筏を作り、火を着けて流し、浮橋を焼き払おうとした。ちょうど筏を作り終えて増水に乗せて流そうとしたとき、この計画を実行に移す前に夏侯尚は曹丕の勅命で中州から撤退した。潘璋は陸口の守りについた。
孫権が帝位につくと右将軍に昇進した。234年、死去した。子は素行不良を理由として、会稽郡に強制移住させられた。妻は建業に住み田地や屋敷を下賜され、小作人50戸の租税を免除された。
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