王駿
おうしゅん
- 16
中国・新の王莽配下の将軍
歳で亡くなりました。 - 16年に亡くなりました
- 没後2004年が経過しました。
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王駿 さんの主な法要の日を表示しています。
命日は01月01日です。
仏式の場合
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初七日 - 0016年01月07日
四十九日 - 0016年02月18日
百か日 - 0016年04月09日
一周忌 - 17年01月01日
三回忌 - 18年01月01日
七回忌 - 22年01月01日
十三回忌 - 28年01月01日
十七回忌 - 32年01月01日
二十三回忌 - 38年01月01日
二十五回忌 - 40年01月01日
二十七回忌 - 42年01月01日
三十三回忌 - 48年01月01日
五十回忌 - 65年01月01日
百回忌 - 115年01月01日
百五十回忌 - 165年01月01日
二百回忌 - 215年01月01日
三百回忌 - 315年01月01日
神式の場合
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十日祭 - 0016年01月10日
二十日祭 - 0016年01月20日
三十日祭 - 0016年01月30日
四十日祭 - 0016年02月09日
五十日祭 - 0016年02月19日
一年祭 - 17年01月01日
三年祭 - 19年01月01日
五年祭 - 21年01月01日
十年祭 - 26年01月01日
二十年祭 - 36年01月01日
三十年祭 - 46年01月01日
四十年祭 - 56年01月01日
五十年祭 - 66年01月01日
百年祭 - 116年01月01日
百五十年祭 - 166年01月01日
二百年祭 - 216年01月01日
三百年祭 - 316年01月01日
キリスト教式の場合
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追悼ミサ(三日目) - 0016年01月03日
追悼ミサ(七日目) - 0016年01月07日
追悼ミサ(三十日目) - 0016年01月30日
死者記念のミサ(一年目) - 17年01月01日
死者記念のミサ(十年目) - 26年01月01日
死者記念のミサ(二十年目) - 36年01月01日
死者記念のミサ(五十年目) - 66年01月01日
死者記念のミサ(百年目) - 116年01月01日
死者記念のミサ(二百年目) - 216年01月01日
死者記念のミサ(三百年目) - 316年01月01日
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詳細
王駿 さんについて
新の王莽配下の将軍である。
元始3年(3年)、執金吾になり、同5年(5年)歩兵将軍に移った。
居摂2年(7年)9月、東郡太守翟義が王莽打倒に蜂起する。明義侯となっていた王駿は、王莽から強弩将軍に任命され、奮武将軍孫建、虎牙将軍王邑ら他の6人の将軍とともに翟義討伐に向かった。同年12月、孫建・王邑らは、圉(陳留郡)で翟義軍を殲滅する。しかし、王駿は軍功をあげられなかったため、翌居摂3年(8年)正月に将軍職から解任されてしまった。
一方で王駿は、前漢末期から匈奴との外交使節の任に携わっていた。時期は不明だが、前漢末に中郎将として王昌とともに使節団の長となり、匈奴単于の下に派遣されている。王莽が新を建国した後の始建国1年(9年)、五威将となった王駿は、再び使節団の長となる。そして新の使節として印璽、金品等を匈奴単于に下賜した。しかし、この時の印璽の刻印は、王莽により漢の時代から改められていたため、後に匈奴の新からの離反を招いてしまう。
始建国2年(10年)12月、王莽は匈奴単于の称号を降奴服于と改める。さらに立国将軍孫建に12人の将軍を率いさせ、五路からこれを討伐させた。この時、王駿も奮武将軍として12人の将軍の1人となっており、定胡将軍王晏とともに張掖郡から出撃している。
天鳳3年(16年)、匈奴を討伐するため、王駿と西域都護李崇は、西域へと出撃した。この時、西域諸国は王駿らの軍を支援したが、そのうちの一国である焉耆国は偽って降伏し、王駿らを攻撃しようと備えていた。そのため王駿らは、莎車国・亀茲国などの兵7千人を率いて焉耆国を攻撃した。しかし、王駿指揮下にあった姑墨国・尉犁国・危須国の兵が反逆したため、王駿は敗北して戦死した。
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